【 ナバテア王国の都ペトラの歴史】

 

 ぺトラ遺跡全景s

 

ペトラとはギリシャ語で岩という意味で、遺跡の多くは岩を掘って造ってある。ここには紀元前13世紀頃からセイル族が住んでいた。

 

ローマがヨーロッパに大帝国を打ち立てるまで、オリエントはいわゆる「肥沃な三日月地帯」を中心に、メソポタミアエジプト古代ギリシアインダスの古代文明を結ぶ要衝として繁栄し、世界最先端の文明を誇っていた。 それぞれの文明は砂漠によって接続され、遊牧民たちがその交易を担っていた。

 

ナバテア人もそんな遊牧民族のひとつだった。ナバテア人は紀元前5世紀ころサウジアラビアから移動してきたベドウィンの一族で、 ローマの支配下に入るまでぺトラの支配者であった。シリアとエジプトが戦争を繰り返したおかげでヨルダン地方の交易は ナバテア人が一手に担うようになり、繁栄するにつれて人口が増し、やがて定住して都市を建設するようになった。

 

もともとこの地は エドム人のものだったが、イスラエルとの交戦で疲弊していたエドム人は、自然とナバテア人と融合していったようだ。 こうしてできた国がナバテア王国で、首都ペトラは最盛期には人口3万人を数えたという。

 

ローマ帝国が勢力を強めるとたびたび交戦するようになり、西暦106年、 ついにペトラはローマ帝国最大版図を塗り替えたトラヤヌス帝によってローマの属州となる。ローマ帝国は地中海のほぼ全域を支配し、実質的に交易権を握った。

 

この頃、地中海のローマ帝国に対し、イランやカスピ海の地をパルティアが支配し、両者が激しく対立した。 このふたつの帝国の線上にあったのが世界遺産にも登録されているパルミラで、交易の中心はやがてパルミラに移り、 また、海洋貿易の発達も重なって、ナバテアの繁栄に影が射しはじめた。決定的だったのは4世紀の2度の大地震で、 これによりペトラは壊滅したといわれている。

 

以来1,000年以上にわたって歴史の表舞台から消え去ったペトラが ふたたび西洋に発見されるのは、1812年にスイス人探検家ヨハン・ブルクハルドがアラビア人を装って伝説の都市の噂を聞きつけて ここに入ってからである。

 

詳細は「ナバテア王国」を参照

 


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