これは、世界4大文明のうちのふたつ、
エジプトとメソポタミア(現在のイラク)のちょうど中間に挟まれ、
”オリエント文明圏”の発祥地であり
”文明のゆりかご”といわれるヨルダン・シリア・レバノンを訪ねた[大シリア紀行]です。
大シリアの歴史
[大シリアの歴史]
[5月13日]
夜、羽田を出発
関空/ドバイ経由でアンマンへ
(機内泊)
コースマップ
(羽田→(関空/ドバイ)→アンマン/ダマスカス→(ドバイ/関空)→羽田)は、☛ こちら
ヨルダン
ヨルダンのルートマップ
(アンマン→ぺトラ→マケラス→マダバ→ネボ山→死海→ジェラシュ→シリア国境)は、☛ こちら。
[5月14日]
朝、ヨルダン・アンマンに到着。
アンマン
[ アンマン]
アンマン城塞は、世界で最も古く(紀元前6000年頃の新石器時代)から継続的に人が居住した場所の1つとされ、鉄器時代には、城塞は アモン人の首都としてラバト・アンモンと呼ばれていたという。
その後、 アッシリア、 バビロニア、 ペルシアによる領有があり、 ギリシャ、 ヘレニズム時代、 ローマ帝国、 東ローマ(ビザンチン)の領有を経て ウマイヤ朝以降は イスラムの支配下となった。 (詳細は☛ アンマン城塞)
また、考古学博物館には先史時代から16世紀初頭にかけての遺物が展示されており、特に2000年前の古文書「 死海文書」の一部や新石器時代の塑像「 アイン・ガザルの像」の展示で有名だ。
(詳細は詳細は☛ 考古学博物館)
アンマン城塞からは、眼下にアンマンの町並や古代ローマ時代の円形劇場などが展望できる。
アンマンを出発、ぺトラに向かう
途中、レストランで昼食
Photo credit: T.Miyazaki
Photo credit: T.Miyazaki
昼食後ぺトラに向け、さらに車を進める
延々と続く砂礫の砂漠地帯を行く。
時折、道路に並行して走る線路があらわれる。ヒジャーズ鐡道の線路の一部だ。
約100年前、 第一次世界大戦時の“南アラビア・シナイ半島・パレスチナ戦線”で、アラビアのロレンス率いるアラブ人ゲリラ(アラブの反乱)によって破壊された駅舎やオスマントルコの要塞跡が、当時のままの状態で残されている。
破壊された駅舎跡
ぺトラ遺跡 の入口にある町、 ワディ・ムーサ (モーセの涸れ谷)に到着
ここには、「 アイン・ムーサ」という泉がある。これは「モーセの泉」という意味で、かつてモーセが杖で岩を打つと、水がほとばしり出たところだと旧約聖書の民数記20章1-13節に記されている。実際ペトラにはモーセゆかりの遺跡は多いが、アイン・ムーサもその一つ。
そのアイン・ムーサを訪ねた
アイン・ムーサ
左奥にある岩が、“モーセが杖で岩を打つと、 水がほとばしり出た”と伝えられている岩
のち、ホテルへ
ホテルにて夕食
モーベンピック・リゾート・ペトラ (Movenpick Resort Petra) 泊
[5月15日]
朝食後、ぺトラ遺跡(世界遺産)へ向かう
ぺトラ遺跡
[ぺトラ遺跡]
冒頭の「 大シリアの歴史」の一端にも登場する、長い歴史を誇るぺトラであるが、大方の人がその存在を知ったのは、スティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスが生み出したインディ・ジョーンズ・シリーズの第3作『最後の聖戦』 のラスト・シーンに、このぺトラ遺跡が登場したことで一躍有名になったからではないだろうか。
実はヨルダンのこの辺りは、映画の舞台にたびたび登場するロマンあふれる砂漠地帯だ。たとえば近くには『アラビアのロレンス』 のロレンスが活躍したワディ・ラムやアカバ の街があり、また映画『十戒 』で知られるように モーセ は紅海をまっぷたつに割ってこの辺りに渡ってきた。
そんな砂漠地帯にあって、ペトラは周囲を断崖と岩山に囲まれた天然要塞で、断崖絶壁に囲まれた一本道(シーク)を抜ければ、そこはもう、知る者しか到達できない幻の都。
ペトラの地図
ホテルを出て程なくすると、
行く手左側に「オベリスクの墓とバーブ・アッシーク・トリクリニウム」が見える
オベリスクの墓とバーブ・アッシーク・トリクリニウム
シークの入り口に着く
シーク入口
ペトラは砂漠の岩山に囲まれた天然要塞で、 ペトラに入るまともな道はシークしかない。
シークとは、狭い岩の裂け目のことを言うのだが、薄暗くて狭いこの峡谷は、うねった通路になっていて、左右の断崖は100~180mにもなるのに、道幅は細いところでわずか3mほどしかない。
この断崖こそがペトラのひとつのハイライトでもある。こんなシークが約1.5kmも続く。これだけで驚異だ。
断崖に口を開けたシーク
シークの岩はピンクに白のラインが何百も層になっており、崖全体が宝石のように美しい
かつてぺトラでは、先ほどの アイン・ムーサ(モーセの泉)から素焼きの水道管を通してシークの入り口付近にあるダムに水が送られ、さらにシークの両側に設置された導水路によってペトラとダムを結んでいた。この高度な水利システムによって砂漠の中で水を確保し、3万人の生活を支えることに成功したのであった。
シークの両側に設置された導水路
この導水路が約1.5kmのシークを通り、
今は遺跡となったぺトラの都市まで延々と続いているのだ
断崖から現れるペトラの宝物庫エル・ハズネ
崖から現れるペトラの宝物庫エル・ハズネ
シークの終わりは突然やってきた
緩やかなカーブを曲がると、
突然、わずかな岩の裂け目の向こうにバラ色に輝くファラオの宝物庫、
エル・ハズネが姿を現した
衝撃の瞬間!
エル・ハズネは、高さ約40m、紀元前100年から紀元後200年の間に建築されたといわれているが、よくわかっていない。エル・ハズネは宝物庫の意味だが、王の墓ではないかともいわれ、これも謎に包まれたままだ。コリント式の柱のほかに、エジプトの遺跡によく登場するイシス神やギリシア、アッシリアの神々が描かれている。
中はガランとした空間で、両側に壁を彫り抜かれた小さな葬儀室があるだけだが、天井や壁の色合いや縞模様が美しい。
たしかにここまでの1.5kmがクライマックスだが、実はペトラにあってシークとエル・ハズネは800とも1,000ともいわれる遺跡群のたったひとつにすぎない。まともに歩いたら2日や3日では見切れないといわれる広大な遺跡群が、ここからスタートする。
「ナバテア王国の都ペトラの歴史」を参照。
バラ色の都市ペトラ ・ナバテアの墓とローマ遺跡
バラ色の都市ペトラ ・ナバテアの墓とローマ遺跡
ペトラは「バラ色の都市」の異名をとるように、岩が白やピンク、赤、真紅、茶、様々な暖色で彩られている。特にエル・ハズネ周辺の岩はバラ色だ。目が光に慣れてくると、その光が純白ではなく、バラ色に妖しく輝いているのがわかる。
バラ色に燃えるぺトラ遺跡
さて、エル・ハズネを抜けてしばらく歩くと左手にナバテアの墓群が現れる
上部に、階段状の模様が見える
ナバテア人は、これを死者の魂を天国へ導くための階段と考えていたのだという
ナバテアの墓
向かい側の崖の中腹には、一方の導水路跡が見える
ナバテア人の墓群からしばらく歩くと視界は少し開けて、
岩山の中にローマ劇場跡が見えてくる
この劇場跡は2~3世紀のもので、古代ローマ様式の劇場で4000人を収容することが可能だという。
当時、地中海世界で大流行したローマ劇場の多くは切り出した石を積み上げて建設されたが、ここの座席には切れ目がなく、岩を彫刻のように彫り抜いている。
円形劇場の右側には、王家の墓と呼ばれる岩をくりぬいた多くの岩窟墓群がみられるが、
ここは帰途に立ち寄ることにして、さらに先へ進む
しばらく行くと、左手にローマ遺跡が現れる
ここは列柱通りと呼ばれ、神殿、宮殿、官庁、公共浴場が集中している。もちろんこれはローマ帝国支配(2世紀)後に建築されたものだ。ペトラ遺跡のほぼ真中に位置していて、残り少ない柱と丸みを帯びた石畳が残されている。
この通りの周囲には多くの遺跡が残されていたが、紀元551年の地震でほとんど崩壊してしまった。
列柱通り1
列柱通り2
列柱通りの先には凱旋門がある
紀元106年トラヤヌス帝の支配の記念、といわれている
凱旋門
列柱通りに沿って巨大な遺跡がある
紀元前1世紀にナバテア人の主要な神殿として建造された、
ペトラ遺跡で最も巨大な建造物「大神殿」である
大神殿
凱旋門の先にカスル・エ・ビント(ファラオの娘の宮殿)と呼ばれる建造物がある
紀元前1世紀頃、ナバテア人が建てたドゥシャラ神(オアシスの豊穣を司る神)を奉った神殿だ
カスル・エ・ビント
ここからはあちこちの岩山へ道が通じている
エド・ディル、犠牲祭壇、ウム・アル・ビヤラや、
モーセの兄アロンの墓があるホル山のジャバル・ハルーンなどである
第二のクライマックスになるエド・ディルを目指す道は、
ここから急な上り坂に変わる
険しい山道を登り詰めた先にあるのが「ペトラの至宝」エド・ディルだ
急で長い登り坂のため、ロバに乗って登坂する
ぺトラの至宝エド・ディル
ぺトラの至宝エド・ディル
エド・ディル1
岩に刻まれた約900段の石段を登った先に、
エル・ハズネよりも一回り大きなエド・ディルが待っている
エド・デイルはペトラの建造物の中でも最も美しいもののひとつだといわれている。高さ45m、幅50mとエル・ハズネより大きいこの建物は、紀元1世紀頃ドゥシュラ神に捧げるために造られたナバテア人の神殿であるとか、ラベル2世(紀元70年/71年 -106年、ナバテア王)の墓だったとか諸説あるが、いずれも定かではない。
後になってキリスト教徒がこれを用いたので、エド・デイル(修道院)と呼ばれている。
エド・ディルの周辺にもおびただしい数の穴居群があるが、これらはエド・デイルで多くの修道僧たちが暮らしていた跡とも言われている。
エル・ハズネはその美しさに息を呑むほどだが、この“天空”のエド・ディルは人間のスケールを遥かに越えた壮大さに圧倒されるのである。エル・ハズネとは違った意味で文句なしに感動を覚える遺跡だ。
エド・ディル2
エド・ディル3
エド・ディル4
帰途は徒歩で降り、王家の墓に向かう
バラ色の都市ペトラ・王家の墓群
バラ色の都市ペトラ・王家の墓群
王家の墓群
左から、宮殿の墓、コリントの墓、シルクの墓、壷(アーン)の墓
正面に岩をくりぬいた建物が多くみられる。印象的なのは、王家の墓と呼ばれる岩窟墓群で、正面の崖に4つ並んでいる。
一番北側の巨大な墓は宮殿の墓と呼ばれているもの (1~2世紀) で、3階建てのローマ帝政期宮殿建築を模しており、コリント式の柱を使っている。個性的な建築様式をしているのだが、残念なことにこれらの意味していることは、いまだ解明されていない。
周囲の山には500ともいわれる墳墓がびっしり刻まれている。岩は薄いピンクで、夕暮れ時、谷はバラ色に燃え上がる。
宮殿風の墓
ファサード(正面)がローマ帝政期のの宮殿に似ているところから、この名前がつけられた
三段構造のうち下2段は岩をくりぬいて造られている
しかし最上段は山の斜面を超えてしまったため、石組みを追加している
ペトラにある墓の中では最大の墓で、紀元70年~106年に建造された
コリントの墓
ファサードを飾る柱がコリント様式に削られていることから、この名前がつけられた
紀元40年~70年?に建造された
シルクの墓
ファサード(建築物の正面)を飾る豊富な色と波打つ模様が特徴
小さな墓だが、このピンクや白、赤、青の岩模様はペトラにある墓の中で最も美しい墳墓だといわれている
壷(アーン)の墓
上部に壺(アーン)のような飾りがあることから、この名前がつけられた
ローマ時代には、アル・マハカマ(正義の法廷:裁判所)とも呼ばれ、
ビザンチン時代(5世紀)には教会として使用されていた
紀元前9年~紀元40年の建造
墓の内部の美しい岩肌
エル・ハズネに戻ってきた
エル・ハズネは夕日に映え、鮮やかなバラ色に染まっていた
夕日に映え、鮮やかなバラ色に染まるエル・ハズネ
太陽の位置や光の加減で、深紅、赤、オレンジ、ピンク、
赤紫と、刻一刻その色を変える
文化遺産と景観データベースの開発を主目的とする、Zamani Projectが作成したぺトラ遺跡の3D画像やビデオ、パノラマツアー、写真、地図などを→こちら からご覧になれます。 |
ぺトラ遺跡を後にホテルへ
途中、シークを出たところどで、馬に乗りホテルへもどる
ホテルでビュッフェ・サービスの夕食
Six images by T.Miyazaki
夕食後、ぺトラ遺跡のエル・ハズネ前の広場で行われた、
ぺトラ・バイ・ナイト(Petra by Night)のショウを鑑賞
モーベンピック・リゾート・ペトラ (Movenpick Resort Petra) 泊
[5月16日]
朝食後、ホテルを出発、死海へ向かう
ホテルを出発
王の道
[王の道]
「王の道」として知られた古代の道、「キングズ・ハイウェイ」を通り死海を目指す
『旧約聖書(出エジプト記)』には、モーセがイスラエルの民を率い、エジプトを脱出したとき、
この道を通って「約束の地カナン」を目指したと記されている。
モアブの砂漠や起伏の激しい渓谷の道を走り抜けると、マケラス (Machaerus)に着く
マケラス
マケラスは、ヘロデ・アンティパスの砦兼宮殿があったことで知られる場所で、
その跡を向かい側の丘から遠望した
ここで“ 洗礼者ヨハネ”は首をはねられ、殺害されたと伝えられている。
また、洗礼者ヨハネの処刑については、ヘロディアの娘サロメ との関わりを含め、福音書を通して後世に伝わり、オスカー・ワイルドによる戯曲「 サロメ 」など、芸術作品のモチーフとして繰り返し用いられている。
マケラスの砦兼宮殿
マケラスの砦兼宮殿の基礎
(The image from Jordan Private Tours)
マケラスの砦を背に
マケラスをあとにして マダバ (Madaba)に向かう。
マダバへ向かう途中の車窓より
高低差のある曲がりくねった道路を走ると、やがてマダバの町に入る
マダバ
マダバは古代の道「王の道」の上にある町で、エジプトとメソポタミアを結ぶイスラエルの「海沿いの道(ヴィア・マリス)」と共に、紅海からシリアのユーフラテス川上流地域までつなぐ重要な国際幹線道路上にあった。
東ローマ帝国時代およびウマイヤ朝時代のモザイクが残ることで知られており、特に東ローマ帝国時代のパレスチナおよびナイル川デルタを描いた、モザイクで描かれた大きな地図(マダバ地図)が有名だ。 この地図は聖ジョージ教会(ギリシア正教会)の床を飾っていた。
聖ジョージ教会
マダバ地図に描かれたエルサレム・エリコ・ベツレヘム・ヨルダン川・死海など。
マダバ地図の説明を受ける
モザイク・イコンのイエス・キリスト
聖ジョージ教会前で
つぎに、モーセ終焉の地といわれているネボ山 (Mt. Nebo=聖書では“ピスガの頂”)に向かう
このあたりは、巨大で広域に及ぶ「 シリア・アフリカ大地溝帯」の一部であり、ヨルダン渓谷は非常に低くなり、ガリラヤ湖地域は海面下、死海地域は世界一低い陸地となっている。
ネボ山
ネボ山は、ヨルダンでは最も重要な宗教上(キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラーム教徒)の地であり、頂上からは死海、エルサレム、エリコ、ベツレヘムなど、まさに聖書の舞台となった場所を見渡すことができる。
ネボ山頂から聖地を望む
またここには、十字架の造形物(青銅の蛇の記念碑)、2000年に訪れたヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)の記念碑、かつて修道院の扉に使用されていたモーセの記念碑 (The Abu Badd)、モーセ終焉の記念聖堂 (ビザンティン様式の礼拝堂)など数々のモニュメントがある。
ネボ山頂・青銅の蛇
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の記念碑
修道院の扉に使用されていたモーセの記念碑
モーセ終焉の記念聖堂
「モーセ終焉の記念聖堂」は、4世紀後半にモーセの死の場所をしのんで建てられた典型的なバシリカ様式の聖堂である。 5世紀後半に拡張され、さらに6世紀後半の597年に建て直された。
中央身廊と 中央祭壇
Photo credit: Miyazaki
中央祭壇
中央身廊
列柱の先に南身廊の先端のナルテックス(玄関間)が見える
モザイクの十字架がある祭壇
床のモザイクがすばらしいディアコニコン(祭儀用の間)兼洗礼堂
これらの建物および遺跡は、 ビザンチンモザイクを収容する建物の改築が2006年末から始まり2016年10月、10年ぶりに公開されるまでまで閉鎖されていた。聖堂としての改修は2008年に始まり、2019年に完了した。
ネボ山をあとに、死海へ向かう。
標高802mのネボ山から湖面の海抜はマイナス430mと、地表で最も低い場所にある死海を
目指して、標高差約1200mの険しい荒野の道を一気に下る
ネボ山→死海
死海
(Movenpick Resort & Spa Dead Sea) に到着
モーベンピック・リゾート・アンド・スパ デッドシー
ホテルに到着後、早速 泥パックをして、死海浮遊体験!
Four images by T.Miyazaki
(Movenpick Resort & Spa Dead Sea)泊
[5月17日]
ホテルにて朝食
Five images by T.Miyazaki
ホテルを出発前に・・・
死海のビーチから、対岸のクムラン、さらにその先のエルサレム(海抜800メートル)を望む
死海を出発、ジェラシュに向かう
ジェラシュ
フォルム全景
The image from Wikipedia
ジェラシュは、ローマ人がアラブに造ったローマ 都市のなかでも最も華麗、かつ壮大な遺跡のひとつであり、かって石で造られた都市は、2000年前とそれほど変わらない姿を見せている。
ジェラシュは古代にはゲラサ(Gerasa)と呼ばれており、北のダマスコ(現在のダマスカス)から南のフィラデルフィア(現在のアンマン)に向かう「王の道 」と言われる街道上の最大の中心都市として大いに栄えていた。(新約聖書 《マルコ福音書第5章1-20節》にもゲラサの名前で登場する)
紀元前64年、 ポンペイウス率いるローマ軍によりローマの植民地に吸収され、ダマスカス、ペラ、ウム、カイス、などの10の都市からなる連合 デカポリスのひとつに加えられた。
その後大いに繁栄したが、7世紀にはいりペルシャ軍の襲来とイスラム軍による征服、さらに8世紀に起こった大地震などにより、建物の多くが崩壊してしまい、19世紀に再発見されるまで廃墟になっていた。
今、目にする建造物や多くの列柱は、地震で倒れたものを再建したものである。
ちなみに、古代ローマ時代の街並みをほぼ完全に残すジェラシュが「世界遺産」に登録されないのは、修復の際セメントなどの化学物質を多用してしまい、真に当時のままとは言えない、という理由によるものだという。
[ ジェラシュ遺跡の地図]
①ハドリアヌスの凱旋門 ②ヒッポドローム(戦車競技場/競馬場) ③南門 ④フォルム(公共広場) ⑤ゼウス神殿 ⑥南劇場 ⑦カルド・マキシムス(列柱道路) ⑧ディオニュソス神殿跡(後の大聖堂) ⑨ニンファエウム(泉の神ニンフの神殿) ⑩アルテミス神殿 ⑪北劇場 ⑫北テトラピロン(四面門) ⑬西浴場跡 ⑭市場 |
現在ジェラシュ遺跡の入り口となっているハドリアヌス凱旋門だが、
2006年当時は修復中のため、凱旋門横のヒッポドローム(戦車競技場/競馬場)
沿いに遺跡へ
①ハドリアヌス凱旋門
西暦129年、時のローマ皇帝ハドリアヌスが訪れたのを記念して建てられた。 凱旋門は、皇帝訪問の記念のアーチとゲラサ(ジェラシュ)へのアプローチの両方の役割を果たしていた。凱旋門が城壁から比較的離れていることは、全盛期にゲラサを南に拡張する計画を示している。
2006年5月、凱旋門は再建中であったが、2007年に再建が完了した。
ハドリアヌス凱旋門
遺跡入り口の南門に向かう途中、ヒッポドロームに入る。
265mの長さに52mの幅があるこの競技場は、戦車競走用に作られており、アーチ型のカーセレスは、馬が配置される開始ゲートである。3世紀初頭に完成し、最大17,000人の観客を収容することができた。
ヒッポドローム外観
Photo credit: T.Miyazaki
ヒッポドローム入場口
アーチ型の カーセレス
(Arched Carceres)
ヒッポドロームのスタンド
(ロイヤルボックス)
ヒッポドロームを出て南門に向かう
南門へ
Photo credit: T.Miyazaki
③南門
遺跡のメインゲートである南門は、競技場から100mほどのところにある。アカンサス(葉アザミ)の葉の彫刻が施されているのが特徴だ。門の前のスペースは市場として使われていた。
南門を入り、ゼウス神殿への遊歩道に沿って進むと、
突き当りに楕円形のフォルム(公共広場)に出る
フォルムへの遊歩道
イオニア式の列柱に囲まれたこの広場は、1世紀に建造された巨大なオーバルプラザ(卵形をした広場)で、宗教的儀式に使用されていた。
広々とした広場は90mx 80mの大きさで、中央には2つの祭壇があり、7世紀に正方形の噴水が追加された。その上に石柱があるが、これはジェラシュフェスティバルの炎を運ぶために最近建てられたもの。
フォルム1
フォルム2
フォルム3
フォルム4
フォルムの右端にゼウス神殿への階段が見える
フォルムからゼウス神殿と南劇場を眺める(共に修復中のため)
南門を入った左側にある。 元の神殿は ヘレニズム時代に建てられたもの。フォルムからこの聖域に通じる階段があり、紀元前100〜80年にはそこに神殿が建てられていたが、2世紀に改築され、さらにそこから別の階段がゼウス神殿に通じていた。
ゼウス神殿はもともと、高さ15mのコリント式の柱に囲まれていたが、地震で破壊され、今では柱が残るのみ。この神殿跡は高みにあって、広場を見下ろしている。
⑥南劇場
ゼウス神殿のとなりにある。 修復中で入場できず。( 修復後のこの劇場は3000人収容で、音響効果にもすぐれ、落としたコインの音が響くほどだといわれており、現在は音楽の公演やフェスティバルの会場として、利用されているという)。
フォルムより ゼウス神殿(左)と南劇場(右)の眺め
修復中のゼウス神殿
修復中のゼウス神殿と南劇場
一旦フォルムに戻り、 カルド・マキシムス(列柱道路)を北に向かう
フォルから北門までおよそ600m、石畳の道の両側に円柱が続く列柱道路は、ジェラシュ遺跡のメインロードであり、歩道と車道に分けられていた。歩道わきには店の跡も一部残されている。さらに、舗装の下には雨水を排水するための下水道も備えられている。列柱通りの敷石には、轍として残る当時の馬車の跡も見ることができる。2世紀頃に敷設された。
カルド・マキシムス(列柱道路)
カルド・マキシムス(列柱道路)
カルド・マキシムス(列柱道路)を北へ向かって進むと、交差点がある。テトラピロン (四面門)の跡があり、東西を貫く基幹道路デクマヌス・マクシムスと交差している
デクマヌス・マクシムスの西方向を見る
交差点脇にアカンサス(葉アザミ)の葉の彫刻が施された柱頭が置かれていた
アカンサス(葉アザミ)装飾の柱頭
交差点を過ぎ、 カルド・マキシムス(列柱道路)をさらに北に進むと、
左側にディオニュソス神殿跡(後の大聖堂)跡がある
⑧ディオニュソス神殿跡(後の大聖堂)
列柱道路の中ほど左側に大聖堂があるが、そもそもこの場所には、2世紀にディオニュソス神(ワインの神)に捧げられたローマ神殿(ディオニュソス神殿)が建てられた。ディオニュソス神殿自体は、ナバテア人の王家の神であるドゥシャラ神を祀る寺院の跡地に建てられたものであった。
ディオニュソス神殿はその後廃墟となり、4世紀初頭にビザンチンによって大聖堂に改築された。 ディオニュソス神殿の遺跡は、大聖堂の新しい建物の建設が始まる直前に基壇のレベルまで取り除かれたが、柱など一部の石材は、大聖堂の構成部分として再利用された。
列柱道路沿い(左側)のディオニュソス神殿(大聖堂)入り口階段
ディオニュソス神殿跡(後の大聖堂)
ディオニュソス神殿跡(後の大聖堂)の横にニンファエウムがある
この装飾用の噴水は、西暦191年に建設され、半神半人の妖精で泉の神ニンフに捧げられたもの。水は壁に刻まれた7頭のライオンの口(現在はライオンの彫り物はみられず、穴のみ)から水盤に流れ込み、そこから排水路を通って地下下水道に溢れ出していた。
噴水および排水システムの構造図は☛ こちら
ニンファエウム(泉の神ニンフの神殿)
その後、アルテミス神殿に向かう
ニンファエウム近くの最も目立つ大きな建物で、ひときわ背が高い11本の大きな柱が林立している。ゲラサの守護神である女神アルテミス(狩と森の神様)に捧げられたこの神殿の建設は、2世紀に始まったが完成することはなく、計画された構造部分と合計32本のうち11本の柱しか建てられなかった。
神殿の構造物は西暦749年の地震には耐えたが、12世紀から13世紀にかけてのさらなる地震により、神殿の壁の上半分が破壊され、地下室の内部と周辺の全域が倒壊し、現在に残る姿のまま放置された。
アルテミス神殿入口前遊歩道、
ひときわ高い列柱は入口門
アルテミス神殿入り口階段
アルテミス神殿
アルテミス神殿
さらに北劇場へ
⑪北劇場
南劇場に比べて1,600人収容と規模は小さいが、保存状態はいい。
もともとはマルクス・アウレリウスの治世に市の評議会室として西暦165年に建てられ、後に拡大された。座席は、政治的および宗教的なフュレー(phylai)によって割り当てられた。 正面には階段が入り口に通じる列柱の広場がある。
劇場はもともと14列の座席しかなく、市議会の会議室としてだけでなく、パフォーマンスステージとしても使用されていた。 評議会に代表される部族の名前は、いくつかの神々の名前とともに、それぞれの席にギリシャ語で刻まれている。
北劇場
北劇場ステージへの通路
北劇場ステージおよびフロア登場口
北劇場ステージ全景
北劇場スタンド
Photo credit: T.Miyazaki
座席に刻まれた 部族の名前と神々の名前
北劇場ステージ
Photo credit: T.Miyazaki
北劇場ステージ
Photo credit: T.Miyazaki
北劇場ステージ前フロア
北デクマヌスがカルド・マキシムス(列柱道路)と交差する場所にもどると、
北テトラピロンがある
⑫北テトラピロン(四面門)
テトラピロン(四面門)は、四角形の古代ローマの記念碑の一種で、4つの側面のそれぞれに門があり、一般に交差点に建てられている。
北テトラピロンは、北劇場への記念碑的な入り口として、建てられたもので、皇帝 セプティミウスセウェルスのシリア人の妻、ユリア・ドムナに捧げられた。
北テトラピロン(四面門)
北テトラピロンの南カルド・マキシムス(列柱道路)側の門に向かって
東側(左側)に西浴場跡がある
⑬西浴場跡
カルドマクシムスの東側には、西暦749年の地震により崩壊したままの西浴場の遺跡がある。2世紀に建設されたこの浴場は、 温浴(calidarium)、微温浴 (tepidarium)、冷浴(frigidarium)の3つの主要な施設を持っていた。
"西浴場跡
フォルム(公共広場)のすぐ北側、
カルド・マキシムス(列柱道路)沿いに市場(マセラム)がある
⑭市場(マセラム)
フォルムに隣接する市場。古代ギリシャでは、マセラムは食品市場として使用される公共の場であった。
ジェラシュのマセルムは1世紀に建設され、2世紀半ばに大幅に拡張された。 5世紀後半から6世紀初頭のビザンチン時代に、さらなる改修が行われたが、西暦749年地震により破壊された。
カルド・マキシムス(列柱道路)沿いに、その市場(Macellum)が復元されている。 その中は八角堂のようになっていて、コリント式の柱に囲まれた十字形の噴水があり、ローマ時代の中庭を再現している。
"市場(マセルム)入口
市場(マセルム)中庭の噴水
帰り際、ヒッポドロームで行われるショーに出演する、
ローマ軍団の兵士に扮した一団に出会う
ジェラシュを出発、シリアのボスラへ
国境でヨルダンのガイドとバスに別れを告げ、
出入国手続きを終えてシリアへ
シリア
シリアのルートマップ
(ヨルダン国境→ボスラ→ダマスカス→パルミラ→ハマ→クラック・デ・シュバリエ→レバノン国境)
は、☛ こちら。
シリア入国後ガイドの出迎えを受け、世界遺産「ボスラ遺跡」へ
ボスラ
ローマ劇場全景
アレキサンダー大王の征服により植民地となってからはヘレニズム化が進められ、紀元前1世紀にナバタイ王国の北の都となった。
紀元106年には、トラヤヌス帝時代にローマ帝国の属州となり、その後、シリア属州出身の皇帝フィリップス・アラブスがローマ風都市を築き、 エジプトからメソポタミアの交易路の中継地として繁栄を極めた。 ビザンティン帝国時代には宗教の中心地として、イスラム時代にはメッ力に向かう巡礼の中継地としてにぎわったが、 相次ぐ地震とモンゴルの攻撃などで衰退していった。 半分埋もれた旧市街地にはナバタイ時代や、口ーマ時代の遺構をはじめ、キリスト教の聖堂、イスラムのモスクおよびマドラサなどが散在し、昔日の栄光がしのばれる。
軽い昼食後、ローマ劇場を訪ねる
ローマ劇場
2世紀に造られ、中東でも最大規模といわれるボスラのローマ劇場は、保存状態もよく、ローマ帝政時代の劇場として世界でもまれなほど完全な形をとどめている。
今でも時折使用されるこの劇場の音響効果は特筆もの。舞台にいる人が普通の声で話したことが、客席の最上階まで、ハッキリと聞こえるほどだ。観客席は上部、中部、下部と37列あり全体で6000人も収容できる。
舞台背後の壁には中央に大きくひとつ、その左右にふたつの小さな登場口が設けられ、中央からは主役のみが登場するようになっている。
オーケストラ(舞台前にひろがる半円形のスペース)の周囲には柵を巡らせた穴の跡があり、音楽以外に人間と動物との戦いも行われていたという。さらに、出入り口がたくさんありすべての観客が5分で外に出られたということである。
また、この劇場の外観は他のローマ劇場と異なり、まるで要塞の趣をしている。それは、西暦636年にイスラム教徒がビザンティン勢を追放した後、7世紀から13世紀にかけて堅固な外壁で劇場を取リ囲み、要塞に変えてしまったことによるものだ。
十字軍の2度におよぶ襲撃にも不落であった。
きわめて良好な保存状態を維持しているローマ劇場。それは堅固な要塞化が理由であった。
ボスラの遺跡を代表する口ーマ劇場は、
口ーマ帝政時代の劇場として完全な姿をとどめる唯一の遺構である
約1メートルの高さの舞台の背後には壮麗なスケナエ・フロンス(舞台背景の壁体)が立つ
観客席の最上部に列柱廊がめぐらされているが、この形の口ーマ劇場はボスラにしか残っていない
ローマ劇場外観、まさに要塞
城砦2階部分にある野外博物館へ
口ーマ帝政時代につくられた彫刻や建造物の一部、および2001年10月にビザンチン大聖堂の廃墟で発見された6世紀のローマ時代のモザイク等を展示している屋外博物館。
黒い玄武岩はこの街の大建造物の特徴となっている。
野外博物館
野外博物館
ローマ時代のモザイク
上から順に、ラクダのキャラバン、狩猟、 ナツメヤシの収穫とハトの繁殖の図
ボスラをあとに、ダマスカスへ
ダマスカスに到着後、シャム・パレス・ダマスカス ホテルへ
ホテルにて夕食。
ホテル レストラン
Photo credit: T.Mitazaki
ホテルロビー
シャム・パレス・ダマスカス (Cham Palace Damascus) 泊。
[5月18日]
朝食後、ダマスカスを散策
「ダマスカス」の散策ルートは☛こちら
ダマスカス
カシオン山
8000年以上の歴史を持ち、聖書や伝説など、じつにさまざまな舞台となってきたダマスカス。
カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。
ダマスカスは、旧約聖書が書かれた時代から今にいたるまで存在する最古の都市のひとつでもある。 アラム人の支配をうけた後、アッシリア 、バビロニア 、エジプトの支配をうけ、さらにペルシャ帝国 の覇権も及んだ。 そして、紀元前4世紀には、アレキサンダー (アレクサンドロス)大王の東征により、セレウコス朝の支配をうけ、 さらにローマ帝国へと受け継がれていく。
その後、イスラムの勃興とともに、紀元661年にダマスカスを首都とするウマイヤ朝 イスラム帝国が成立。 その後イスラム帝国はアッバース朝が興ることにより首都がバグダッドにうつるが、以降もダマスカスはイスラム文化の中心であり続けた。 やがてルネサンスを迎える西ヨーロッパが、 ギリシャ文明と出会うのも、11世紀から13世紀の十字軍遠征により、ダマスカスなどのイスラム都市を一時支配してきたことによるものなのだ。
ダマスカスはその後、アイユーブ朝 、マムルーク朝の支配の後、オスマン・トルコ帝国の支配をうけて、 現在のシリア・アラブ共和国 の首都へと至っている。
まずは、ダマスカス国立博物館を訪れ、
その後旧市街(世界遺産「古代都市ダマスカス」)へ
ダマスカスの中心部にあり、シリアの最も重要な古代の3遺跡、マリ、エブラ、ウガリットからの出土品を始め、今から5000年以上前のメソポタミア文明から、ヘレニズム、ローマ、イスラム、トルコと流れる各時代の遺物がこの博物館には収められている。
ここにあるのは11,000年以上にわたるシリアの歴史だけでなく、世界史なのである。
しかし、2011年に勃発したシリア内戦により、博物館は2012年に一時的に閉館、貴重なシリアの文化遺産を破壊や略奪から守るため、30万点以上の遺物を安全な場所に移し保管した。6年後の2018年10月29日に5つの棟のうち4つを再開し、現在に至っている。
ダマスカス国立博物館
ダマスカス国立博物館
入り口は8世紀ウマイヤ朝の遺跡のヘイル宮殿の門を移築したもの
(ペルシャ、ビザンチン、シリアの折衷様式)
古代都市ダマスカス
「 古代都市ダマスカス」
サラーフッディーン像から旧市街の城壁沿いに、アル・ハミディヤ スークを目指す
アル・ハミディヤ スークを抜け、ウマイヤド・モスクへ
サラーフッディーン像
シリアでは、サラーフッディーンの没後800年を記念して、ダマスカスの旧市街の城壁の外に騎馬姿のサラディン像を建造した。
サラーフッディーンは、 クルド人軍人でアイユーブ朝の創始者。ヨーロッパでは「サラディン」の名で知られている。イスラムの再統一に努め、シリアのイスラム勢力を統一したのちに、十字軍と対決。十字軍の主力を打ち破り、エルサレムを解放した。
武将としてのサラディンは、イスラムの英雄としてだけでなく英明寛容な君主としてヨーロッパでもたたえられた。
"サラーフッディーン像
城壁
1世紀頃、ローマが最初に建設したと言われている。2006年現在残っているものは、13世紀から14世紀にかけて、十字軍やモンゴル帝国の侵略を防ぐために、アラブ人が建築したもの。
"城壁
アル・ハミディヤ スーク
アル・ハミディヤ スークは、ダマスカス最大のスーク(市場)である。旧城壁都市内にあり、長さ約600m、幅15mで、高さ10mの金属製のアーチで覆われている。スークはアルタウラ通りで始まり、ウマイヤドモスクプラザで終わる。
スーク・ハミディエの西側入口には古代ローマのジュピター神殿の門が残っている。
"アル・ハミディヤ スーク
"ウマイヤドモスクプラザ
紀元715年、ダマスカスを首都とした世界最初のイスラム王朝であるウマイヤ朝によって建てられた、現存する世界最古のモスク。
元々は、 アラム人のハダテ神 の神殿だったが、その後、ローマ時代にジュピター神殿になり、さらにビザンチンの時代には聖ヨハネ教会となった。幾多の変遷を重ねた後、8年の歳月を費やし壮大なモスクに改装されたのであった。
ハラム(礼拝用広間)にある内部の建造物は洗礼者聖ヨハネの首が納められていると信じられているほこら(モスク建設時に首なし死体が発見された。遺体の状況を史実と照らし合わせるとイエスに洗礼を施したヨハネである可能性が高いことから、このように手厚く葬られている。首は、マケラスの宮殿で、ヘロデ王がサロメの求めに応じ与えたといわれている)だ。
ローマ時代の柱などもリサイクルされ、使われている。形状の異なる4本のミナレットと広い中庭を持つ壮大な建物は、夜にはライトアップされるなど、今も街のシンボルとして君臨している。
"ウマイヤドモスク
女性は貸し出されるフード付きのコートを着て入場することが義務付けられている
ウマイヤドモスク入口
ウマイヤドモスク
入口からウマイヤドモスクプラザを見る
ウマイヤドモスク
ウマイヤドモスク
ハラム(礼拝用広間)
ウマイヤドモスク
聖ヨハネのほこら
"ウマイヤドモスク
中庭
さらにアゼム宮殿に向かう
シリアの首都ダマスカスの旧市街にある後期オスマン建築の宮殿。ウマイヤドモスクの南側に位置する。
18世紀半ば、同地方を治めた総督アッサード=パシャ=アル=アゼムの邸宅として建造。現在は民族博物館として公開されている。
アゼム宮殿中庭
アゼム宮殿中庭
アゼム宮殿中庭
庭に植えられたアカンサス(葉アザミ)
アゼム宮殿から旧市街の路地を歩いてレストランへ
レストランにて昼食
Photo credit: T.Miyazaki
昼食後、聖アナニアス教会を訪ねる
旧市街の「まっすぐな道」の東門に近い聖アナニアス教会は通りから6mほどの地下にある古代の地下建造物で、新約聖書に出てくる「 パウロの回心」の舞台である。アナニアがサウル(のちの使徒パウロ)に洗礼を授けた時に住んでいた、ダマスカスのアナニアの家の遺跡と言われている。
アナニアは新約聖書( 使徒言行録=使徒行伝)の登場人物である。 彼はダマスコ(ダマスカス)在住で、 イエスの弟子であった。
聖アナニアス教会は、地下遺跡が礼拝堂になっている
キリストの使徒として伝道を行ったパウロの逸話が、絵として残されている。
地下礼拝室への入り口
聖アナニアス教会を出て徒歩2~3分ほどのところに、
「まっすぐな道」と「旧市街の東門(ローマ門)」がある
新約聖書にも登場するこの道は、ダマスクスの旧市街を東西に走っていた、長さ1570メートル、幅26メートルの大通りである。古代ローマの時代に整備された。
パウロもこの道を歩いてダマスカスへ入ったといわれている。
現代の「まっすぐな道」
旧市街の東門(ローマ門)
「まっすぐな道」の東端にあるシャルキー門は、ローマ時代から残り続けている唯一の城門である。
旧市街の東門(ローマ門)
ダマスカス最後の訪問先、聖パウロ教会
旧市街にある教会。キリスト教に改宗した使徒パウロがユダヤ教徒の報復から逃れるため、この塁壁の窓から籠に入って吊り下げられ、ダマスカスから脱出したといわれる城門の場所(バブキサン=Bab Kisan)に、その当時の城門の石材の一部を使って建てられた。
聖パウロ教会
ダマスカスを発ち、パルミラへ向かう。
パルミラ
[ パルミラ]
泥沼の内戦がいつ果てるともなく続くシリア共和国。そこに世界でもっとも夕陽が美しいと言われる中東の遺跡パルミラがある。
シリア砂漠のオアシス都市パルミラは、地中海とメソポタミアを結ぶ隊商交易の中継地として栄えた国際文化都市であった。砂漠を行く商人たちはシルクロードに咲くバラ色の街を愛し、一時のやすらぎをこの地に得た。
パルミラは、 ローマ帝国とササン朝ペルシアの間にあって緩衝地帯となり、ローマとの良好な関係は、ローマ様式で建設された豪華なベル神殿や記念門、列柱大通り、劇場などの遺構からうかがい知ることができる。この豊かな隊商都市は3世紀末にシルクロード史上最大の華ゼノビア女王の政治的野心とともに壊滅した。
隊商都市として存続したパルミラもアラビア海航路が開かれて交易路が変わると砂漠に埋もれ、死の都と化した。
先に述べた戦乱(2011年に勃発したシリア内戦 )では、ベル神殿、 バールシャミン神殿、凱旋門が IS によって破壊された。
文明のゆりかごに咲いたバラ “パルミラ”
文明のゆりかごに咲いたバラ “パルミラ”
パルミラは、 シルクロードの荒野を渡る商人たちがそのあまりの美しさに「バラの街」とたたえた都市国家。没落から1,700年を経た現在でもその美貌は変わらず、世界でもっとも美しい廃墟のひとつといわれている
世界で最初に生まれた文明は「 メソポタミア文明」であるが、メソポタミアとは川のあいだという意味で、 ティグリス、ユーフラテスの二つの川にはさまれた地方をさし、現在の国名でいうとイラクになる。 このイラクから西の地中海に至る一帯、すなわち現在のイラク、 シリア・ヨルダン・レバノン・パレスチナ・イスラエル一帯を、 「文明のゆりかご」あるいは「文明の十字路」と称しているのである。
現在のシリア・ヨルダン・レバノン・パレスチナを含むイスラエルにまたがる地域は、古くから「シリア」と呼ばれていた。 現在では、シリア共和国と区別するため「大シリア」とも呼ばれているが、 中東におけるシリアが地政学上いかに重要な位置を占めていたかは、 「中東を制するものは、まずシリアを制す」と言う言葉にもよく表されている。
古代より各国は競ってこの地を治めようとしたが、紀元前4世紀のセレウコス朝と紀元7世紀の ウマイヤ朝を除いて、 この「大シリア」に統一国家が成立したことはない。
シリア・ヨルダン・レバノンという国に分けられたのは20世紀初頭の第一次世界大戦後になってからのことである。 その「大シリア」とメソポタミアとの間、ユーフラテス川の西に拡がるシリア砂漠に「パルミラ」はある。
砂漠の幻影
砂漠の幻影
ダマスカスを出てパルミラへ向かう車から眺める景色は、ただひたすら荒野。熱砂のシリア砂漠だ。 360度を滑らかな地平線に囲まれて、見えるのはところどころにある岩山と砂礫。街はもちろん川も緑もなく、完璧な地平線がつづく。
道程のちょうど半分ほど来たところにポツンと小さな休憩所があり、朽ちた馬車の荷台に“Bagdad Café 66”という看板が立てられていた。
なんとなく西部劇を思い出させるシーンである
休憩所の中には小さな売店があって、 ベドウィンの男がひとり店番をしていた
ひと休みした後、再び砂漠の中をパルミラ目指して車を走らせる。しかし、予想以上に時間がかかっている。このままでは日没までにパルミラには着きそうもない。残念だが「夕陽に染まりバラ色に輝くパルミラ」は あきらめざるを得ない。
パルミラまであと数キロというところで、とうとう日没を迎えてしまった。 燃えるような太陽が、あたりの砂丘を赤く染めながらまさに沈もうとしていたその時、太陽を背に砂丘の先から忽然とロバに乗った 羊飼いが現れた。
そのあとから羊の群れが次々と姿を現し、こちらへ向かってくる。
草木も生えない岩石と砂礫だけのこの荒野の、いったいどこからきてどこへ向かうのだろう?
まるで幻を見ているようだ。
偶然に訪れた2度とないシャッターチャンスに我を忘れ、夢中でシャッターを押し続けていた。 そしてその瞬間は、「夕日に輝くバラ色のパルミラ」をすっかり忘れていた。
シリア砂漠に沈む燃えるような夕日
夕日の中に忽然と現れた羊飼い
砂丘の向こうから次々に現れる羊たちの群れ
羊飼いと
パルミラに到着した時にはすでに日はとっぷりと暮れ、
夜空には満天の星が輝いていた
シャム・パレス・パルミラにチェックイン
シャム・パレス・パルミラ ホテルのロビー
Photo credit: T. Miyazaki
ベドウィンのテントでベドウィン料理の夕食とベドウィンダンスを体験。
Photo credit: T.Mitazaki
Photo credit: T.Mitazaki
Photo credit: T.Mitazaki
シャム・パレス・パルミラ (Cham Palace Palmyra) 泊。
[5月19日]
アラブ城砦から眺めたパルミラ遺跡の全景。その壮大さに思わず息をのむ。ちなみにダマスカスからここまで約240km、ユーフラテス川まで約180㎞、バグダッドまではそこからさらに約560㎞の道程だ。
アラブ城砦から見たパルミラ全景
遺跡の周囲をナツメヤシの林が取り囲んでいる
商人たちはこのオアシスを目指して死の砂漠を渡ったのだ
砂漠にたたずむパルミラの遺跡
砂漠にたたずむパルミラの遺跡
パルミラとは「ナツメヤシ」を意味し、シリア砂漠の真中に位置する世界でも最大級の隊商都市遺跡だ。
シルクロードの商人たちは砂漠に咲くこの街を「バラの街」とたたえた。 ローマ人たちは砂漠にナツメヤシの茂るオアシスを見てここを「ナツメヤシの都」と称した。 緑の都の繁栄は3世紀に終わったが、砂漠にたたずむパルミラの美は1,700年を経た現在も変わらない。
朽ちてなお美しい、という表現がぴったりのローマ記念門
優美な造形と繊細な装飾は、間近で見ても離れて見てもため息が出る素晴らしさだ
パルミラには、旧石器時代にはすでに人類が生活し、メソポタミア文明期にはすでに交通の要所として繁栄していた。 西アジアのこの辺りは岩石や礫からなるシリア砂漠が広がる乾燥地帯だ。
商人にとって砂漠を縦断するこの商業ルートは生死を賭けた危険な旅であった。
ヤシの林が広がり水が湧き出すパルミラのオアシスは、ヨーロッパとアラブ、ペルシア、 インドを結ぶ要衝のひとつとして発展をはじめる。
「なつめやし」の林の先に遺跡がある
このパルミラが繁栄をはじめるのはヘレニズム文化が花開く古代マケドニアのアレクサンドロス大王(アレキサンダー)のペルシャ征服以降。紀元前1世紀、ローマ帝国が勢力を伸ばしてパルミラを属州とすると、ローマの庇護を受けてシルクロードを中継する都市国家として急速に発達した。
砂漠を守る神々を祀った神殿や、豊富な水を使った浴場、円形劇場で上演された演劇は、死の砂漠を行く商人たちに愛されて、特に紀元106年に南部のペトラ(ヨルダンの世界遺産)がローマ帝国に併合された後、それに代わる西アジア交易の中心地として栄華を極めたのであった。
美女ゼノビアとパルミラの滅亡
美女ゼノビアとパルミラの滅亡
紀元260年、パルティアを滅ぼしたササン朝のシャプール1世が エデッサの戦いでローマを破ると、西アジアにおけるローマの支配は混乱。 パルミラはローマの最前線としてササン朝と果敢に戦うが、267年に 首長オダイナトゥスが暗殺されるとその妻ゼノビアが幼い息子ウアヴァラトゥスを立てて指揮を執り、機を見てローマからの独立を図る。
ゼノビアはクレオパトラの末裔を宣言し、実際クレオパトラに迫るほど美しかったという。 戦士として、また他国語を操る政治家としても優秀だったゼノビアは、やがて息子に皇帝を意味する「アウグストゥス」を名乗らせると、 自分は皇帝の妃を意味する「アウグスタ」を称し、ローマと明確に対立するようになる。
これに対してローマ帝国のアウレリアヌス帝はパルミラ遠征に乗り出し、272年、パルミラはついに陥落。ゼノビアは捕えられ、 金の鎖につながれてローマに連れ去られてしまう。そして パルミラの繁栄は終わったのであった。
その後は、6世紀以降に アラブのガッサン朝、ウマイヤ朝、アッパース朝と支配者が代わり、 オスマン帝国時代には急速に都市としての力を喪失し、再び歴史の表舞台にたつことはなかった。
「金の鎖につながれ、ローマに連行される女王ゼノア」
Harriet Hosmer 作 セントルイス アートミュージアム所蔵
朝食後、パルミラ遺跡へ向かうが、その前に パルミラ考古学博物館を訪ねる
パルミラ考古学博物館は、パルミラ遺跡から発掘されたパルミラの黄金時代(2~3世紀)の歴史的遺物を所蔵していた。2015年シリア内戦に参戦したISILの戦闘員がパルミラに侵入する直前、一部の所蔵品はダマスカスに避難させることが出来たが、大半は彼らの破壊と略奪行為により壊滅的な被害を受けた。
私たちが訪問した2006年当時、中庭にはいくつかの展示物があったが、その一つにライムストーン(石灰岩)で作られた石棺があった。ギリシャ・ローマ世界と西アジア世界の両方に共通するデザインのその石棺は、明らかに重要な地位にあったと思われる人物のものであったと推定されている。
石棺の蓋は、ローマ式の宴会に使用されるソファを模していて、それに横たわるパルミラ帝国の衣装を着た実物大の故人の像が彫られている。石棺の正面のレリーフは、生贄の準備をする一連の人物を表している。(博物館内は撮影禁止であった。)
現在のパルミラ考古学博物館の状況および所蔵品については、☛こちらを参照。
パルミラ考古学博物館
中庭に展示されていた石棺
パルミラの遺跡、その全貌
パルミラの遺跡、その全貌
パルミラの遺跡は大きく3つの地域から成る。
その第一は、約2km×1kmで囲まれた都市遺跡で、主に1世紀に造られたローマ式の遺跡群だ。
中心はベル神殿で、そこから1.3kmにわたって列柱つきの大通りが続く。 他にもバール・シャミン神殿(土地に雨をもたらす豊穣の神)、ナブー神殿、ローマの円形劇場やアゴラなどがあり、北部には居住地跡が広がる。
第二が都市遺跡の西に位置する墓の谷だ。紀元前3世紀頃からの塔墓や地下墳墓が数十も発見されている。
第三がパルミラ全体を見おろすアラブ城砦。もともと15世紀に十字軍に対抗するための砦がここに築かれて、17世紀に城となった比較的新しい遺跡だ。
1.都市遺跡
[ベル神殿]
「ベル神殿」は遺跡の中では最大のもので、「バビロニア・アッシリア神話」にでてくる「天と地の神」ベルを祀る神殿である。
現在の建物はヘレニズム時代の丘に建てられた神殿が後に建て替えられたもの。紀元35年頃に着工、約100年かけて完成した。
境内は東西210m、南北205mのほぼ正方形で、壁の高さは11m あり、紀元1~2世紀頃に建造された本殿(神像安置所)とそれを囲む柱廊、犠牲祭壇、催事場によって構成されている。
神殿の境内
境内の一角にある巨大な建物がパルミラの宗教センターであった。主神ベル(セム語でバール―豊穣の神で最高神を表す)、 太陽神ヤヒボール、月神アグリボールの3神に捧げるために建造された本殿(神像安置所)である。
本殿の裏手には8本の円柱が並び建物の周囲を巡る柱廊の面影を残している。
本殿の中には、左右にベル神と太陽神マラクベル、月神アグリ ボールの三位神像が祀られる安置所がある。
天井は丸くえぐられており、そこにユピテルを中心に惑星七神の胸像が刻まれ、その周囲には黄道帯の十二宮図が画かれていた。
本殿内部の壁面には数々のレリーフが残され、また、本殿脇には円柱のアーキトレーブ(大梁)の一部が置かれ、それには神殿の列柱、肩に三日月を付けた神アグリボール、果物を供えた祭壇などが彫られている。
本殿
本殿の裏手の円柱と柱廊
ベル神、太陽神、月神の三位神像が祀られる安置所
天井に彫刻された惑星七神の胸像
本殿内部の壁面レリーフ
本殿脇置かれていた円柱のアーキトレーブ(大梁)の一部
ー催事場ー
ベル神を祝う祭りの際、神に捧げる動物を連れた信者達の入口が ある。
壁面に空いた無数の穴はオスマントルコ時代に武器の材料とするため、接続部分のジョイントの鉄を抜いた時に出来たものだという。 本殿の壁や柱、神殿の壁にも多くの穴が開いている。
捧げ物の動物は地下通路に運び込まれ7回ほど神殿内の神像安置所の周りを引き回された。
催事場
動物が運び込まれた地下通路
ー燔祭用の犠牲祭壇ー
祭りの最終日には本殿前の境内中央にある処理台で捌かれた。処理台から続く側溝は、捧げ物である動物を捌いた際に出る血を流すために設けられた。
捧げ物は羊が多く、料理された肉は信者達で分け合い神は煙のみを食べたという。
燔祭用の犠牲祭壇
ーコリント式円柱ー
特徴であるアーカンサス(葉アザミ)をモチーフに彫刻した柱頭が円柱を飾る。また、アーキトレーヴ(大梁)もしっかりと残っている。
コリント式円柱
アーカンサス(葉アザミ)をモチーフにしたコリント式円柱の柱頭
ードリス式円柱ー
柱頭には装飾はなく、円柱に特徴である線的な構成がはっきり残る。円柱の中ほどの突起は、彫像を飾るための台(持ち送り)だ。
ドリス式円柱
彫像を飾るための台(持ち送り)
[ローマ記念門]
3世紀初頭、セプティミウス・セウェルス 帝時代に建てられた。
この門には豪華で精緻な装飾が施されており、その造形は朽ちてなお優美だ。
カシの実や葉、ナツメヤシの枝、アカンサス・ ブドウ・テンナンショウの唐草模様などがモチーフに使われている。
ローマ記念門
[列柱道路]
ベル神殿から北西のアラブ城砦まで1キロ余り続く大通りだ。かつては両脇に各々108本、計216本の柱が並んでいたという。 現在は80本以上の円柱が再現されている。
また、ラクダの足にかかる負担を軽くするため、このパルミラの列柱道路には他の列柱道路のような石畳の舗装が施されておらず、砂地のままだ。
各円柱には功労者の彫像を乗せるための「持ち送り」をつけ、 その下にパルミラ語とギリシャ語で献辞が刻まれている。ちなみに、クイーン・ゼノビアの名を刻んだ柱は、「四面門」の近くにある。
[浴場跡]
「ゼノビアの浴場」または「ディオクレティアヌスの浴場」として知られる「浴場跡」。
4本の美しいエジプト産花崗岩 でできた円柱が並んでいるが、これは横85m、縦51mの建物 の入り口だ。
浴場跡
[アゴラ(市場)]
集会場と商取引の機能を持った場所であり、2世紀頃に造られたもの。
東側にある入口から入ると、イオニア式の4つの柱廊により横84m、 縦71mの四角い庭が囲まれていて、柱廊沿いには間口を持った店跡がならび、北側の柱廊には貯水槽と演壇も残されている。
アゴラ
[円形劇場]
舞台の前には円形のフロアがあり、それを階段状の観客席が囲む。観客席の段は当時の約1/3で、現在は13段が残っている。かつては3万5千人を収容できたと言われているが、現在の収容人員は5千人ほど。
[四面門]
古代ローマの属州では都市中心部の交差点に設けられた。特にパルミラのものは壮大だ。
ここから東に向かってシルクロードが始る。ユーフラテス川を渡るとイラクだ。その先にバグダッドがある。数えきれないほどの隊商の列が、ここから旅立っていき、帰ってきた。
四面門
The image by T.Miyazaki
[バールシャミン神殿]
バールシャミン(ギリシャ語で「ゼウス」)は、雷雨と豊穣のための神で、当時の最高神として崇められていた。
外観は驚くほど綺麗に保存されている。 これは、5世紀に教会として作りかえられていたからだ。
バールシャミン神殿
2.墓の谷
[砂漠とオアシスと墓の谷]
遺跡の西に拡がる谷に墓が集中している地域があり、紀元前3世紀頃からのパルミラ人の塔墓群や地下墳墓などが点在している。
墓群
[エラベール塔墓]
塔墓は最も古い型の墓室である。 初期のものは簡素で納体室が塔の外面に並んでいたが、紀元後1世紀頃から、外観は方錐形で、内部は数段に分かれ、 石の階段でつながる形になった。
この 墓は、パルミラの貴族であったエラベ ール家の墓で、紀元103年建立の4階建ての引き出し式共同墓で300人が収容できた。 中はコリント式の柱と装飾天井で飾られてる。 ミイラに巻かれていた布は シルクであったことが分っており、装飾柱で飾られている柱と柱の間の空間に遺体を収めた。
塔墓
コリント式の柱と装飾天井
遺体を安置した柱と柱の間の空間
3.アラブ城砦
アラブ城砦は、正式にはファフルッディーン城(カラート・イブン・マアーン)といい、12~13世紀に十字軍に対抗するためにイスラム勢力が建設したものが原型。現在の城砦は17世紀初めにオスマン帝国の知事、ファクル・エド・ディーンによって改築されたもの。
パルミラ遺跡より1,000年以上後に建てられので、比較的いい状態で残っている。
午後、パルミラを発ち、シリア第5の都市ハマへ向かう。
ハマ
[ ハマ]
ハマは紀元前10世紀頃から歴史に登場している。 ヒッタイトの時代にはハマテと呼ばれ、 イスラエルおよびレバノンとの交易を行い、キリスト教時代や十字軍の時代、そして現代にいたるまで シリアの歴史にその名をとどめている街である。
街をゆったりと流れる オロンテス川の両岸は、砂漠を見慣れた目には驚くほど緑が濃い公園や林、そして整備された美しい庭園がある。 その庭園の中で、直径20m近い巨大な水車が重い音をきしませ、しぶきを上げながら回りつづけている。
ハマのシンボルといわれる水車の歴史は紀元前1100年頃までに遡るとされる。ハマが 東ローマ(ビザンティン)帝国の支配を受けていた9世紀頃のこと。 その後、その数はどんどん増えていき、中世には農地のかんがい用に30以上の水車が現れたという。現在でもこの古い街には合わせて17基の大型水車があり、庭園に水を供給するために使われている。 かつて、川床が低く水面も低いオロンテス川から、用水路や農地へ灌漑を行うために水車が使われていたが、現在ではもっぱら観光用として維持されている。
水車以外でハマが有名になったのは、1982年に発生した大虐殺だ。ムスリム同胞団による大規模な暴動を制圧するため、アサド大統領(現大統領の父親)は政府軍を派遣し、 爆撃や戦車などによる市街戦で2万人以上の市民が犠牲となった。犠牲者のほとんどは女性や子供だった。また同胞団メンバーとその支持者と見られた市民多数が連行され拷問・処刑された(ハマー虐殺)。
今では事件を偲ばせる生々しい跡はほとんど残っておらず、穏やかな街並みが非常に印象的であった。
オロンテス川
庭園内の水車
直径27m、世界最大の水車
庭園内の水車
庭園内に施設された 灌漑用水路
アゼム宮殿の前の三連水車
のち、ホテルへ。
ホテルにて夕食。
アパメ・シャム・パレス (Cham Palace Damascus)泊。
[5月20日]
朝食後、ハマを発ちクラック・デ・シュバリエへ向かう。
クラック・デ・シュバリエ
[ クラック・デ・シュバリエ]
ダマスカスから北に向かって約160キロほどの所にホムスの街がある。そこから東に向かえばパルミラに行くが、西に60キロほど向かうとクラック・デ・シュヴァリエがある。小高い丘の上に建ち、天に向かって純白の塔がそそりたつ。完成したのち完全に攻略されたことがなく、十字軍が残した城の中で最も保存状態の良いものとして知られている。
天空の城“ クラック・デ・シュバリエ”
天空の城“ クラック・デ・シュバリエ”
山の頂にたたずむその城は、アラブの英雄サラディンがひと目見ただけで攻略をあきらめ、アラビアのロレンスが世界で最も素晴しい城だ、と述べたというほど、機能美に満ちている。
同時に、切り立った丘の上に建つその姿は凛として気品にあふれ、なにものにも侵されない聖地であるかのようでもあり、旅人たちはこの城を「天空の城」と呼ぶ。
天空の城は、機能が優れているだけでなく屈指の堅固さを誇る城でもある。城内へ侵入するための攻城塔や、カタパルトによる投石を防ぐため、山頂に築城され、周囲は即斜面となっている。外壁が中の城壁より低いのは、両方から矢を同時に放てるようにするためだ。さらに城内には濠もめぐらされており、堅牢な城塞を形造っていた。守備塔は城壁に7つ、外壁に8つあり、この間に堀があって、かつては跳ね橋によってつながれていた。
クラック・デ・シュバリエは、11世紀初頭にホムスの王が築いた砦であったが、1099年に聖地エルサレムを奪回するために遠征して来た十字軍聖ヨハネ騎士団が占領し、城砦としての大幅な改築が行われ、当時の十字軍国家最大最強の要塞であった 。
クラック・デ・シュバリエ全体図
堅牢な城塞
城内の濠
城内への入り口
かつては跳ね橋でつながれていたが、現在は固定した橋が施設されている
城壁の石組みには隙間はなく、堅固であるのがよくわかる
城内
城内中庭
Photo credit: T.Miyazaki
礼拝堂入口
第1回十字軍の遠征
第1回十字軍の遠征
周囲を睥睨するクラック・デ・シュバリエの見張り台からの眺めは、
地平線の彼方まで見渡すことができる
クラック・デ・シュバリエを語るには、十字軍の物語が不可欠だ。十字軍とは、キリスト教の聖地エルサレムを異教徒の手から奪回するための遠征軍のことである。
十字軍がはじまる11世紀前後、西アジアからトルコにかけてをイスラム教のセルジューク朝が、エジプトをやはりイスラム教のファーティマ朝が、トルコからバルカン半島にかけてをキリスト教ギリシア正教会の 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、西ヨーロッパはキリスト教カトリックのローマ教皇を冠する 神聖ローマ帝国や西フランク王国などが支配していた。
1095年、セルジューク朝の侵略を受けたビザンツ皇帝アレクシオス1世がローマ教皇 ウルバヌス2世に救援を依頼。兵士を借りようと思っての依頼だったが、ウルバヌス2世はクレルモン公会議で聖地エルサレムの奪回を呼びかけ、参加者には 免罪が与えられると宣言した。これが、十字軍運動の大きな引き金となったのだ。
1096年、第1回十字軍はトルコの アナトリア高原を横断して西アジアに入り、途中の街で掠奪と虐殺を繰り返しながら進軍し、1099年、ついにエルサレムを奪回する。エルサレムを落とした十字軍は、城内のイスラム教徒はもちろん、ユダヤ教徒や正教会の人々をも無差別に虐殺・掠奪、エルサレム旧市街は文字通り血の海に埋もれたという。
十字軍国家の誕生とキャッスル・ベルト
十字軍国家の誕生とキャッスル・ベルト
クラック・デ・シュバリエと同じくキャッスル・ベルトと呼ばれる防衛線の一部として
周囲に睨みを効かせるカラット・サラディン
第1回十字軍の進軍の途中、現在のトルコ、シリア、レバノン、イスラエル周辺に数々の十字軍国家が誕生した。特にエデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国の聖地四国は、隣接するイスラム教国との間、特に見晴らしのいい山頂に城を築き、防衛線を張った。これがキャッスル・ベルトだ。
先にも述べたとおり、クラック・デ・シュバリエはもともと1030年代にイスラム教徒によって造られた砦だったが、第1回十字軍の進軍中に落とされてトリポリ伯国のものとなり、1144年に聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)に移管された。このあと守備塔が加えられ、分厚い城壁が設置され、城内には広大な貯蔵庫が用意されて、数年間の包囲にも耐えられるよう整備された。
カラット・サラディンはクラック・デ・シュバリエよりも歴史が古く、フェニキアの時代(紀元前1千年紀の初頭)に建てられたと考えられている。フェニキア人は紀元前334年にアレクサンドロス大王にこの城を引き渡したといわれる。
以後しばらく歴史からは消えているが、 10世紀にビザンツ帝国が砦として建造し、12世紀初頭、十字軍のものとなった。やがてクラック・デ・シュバリエとともにキャッスル・ベルトの一端を担う城、サユーン城砦として整備されたのである。 1188年、下記に登場するイスラムの武将サラーフッディーン(サラディン)に落とされ、その後しばらくして放棄されたため、クラック・デ・シュバリエに比べてかなり崩壊が進んでいる。
サラディンとエルサレム奪還
サラディンとエルサレム奪還
そのような時、現在でもアラブ世界で「英雄」と崇められる、 サラディンが登場する。現イラクのティクリート (イラクのサダム・フセインが捕まった村)のクルド族出身で、アレッポのヌールッディーンの地方官となる。ヌールッディーンがダマスカスを落とすとサラディンは要職を担うようになる。
エジプト遠征に参加したのち、次々と宰相が死に、人材不足に陥ったファーティマ朝によってサラディンは宰相に任命される。サラディンはこの職を望まなかったが、穏やかな彼の人柄を見てファーティマ朝のカリフは、彼ならコントロールできると考えたようだ。こうして1169年、サラディンの名字をとったアイユーブ朝が誕生する。
スンニ派のヌールッディーンは部下のサラディンに対し、ファーティマ朝の廃絶を要求するが、義を重んじるサラディンはのらりくらりとこれをかわす。こうして難しい立場に立ったサラディンだが、1171年にファーティマ朝のカリフが亡くなり、自然とファーティマ朝が消滅。ヌールッディーンも1174年に病没する。
立場を固めたサラディンは援軍の要請を受けていよいよ西アジアに進出。1187年、ついにエルサレム奪還に成功する。第1回十字軍が掠奪と虐殺を繰り返したのに対し、サラディンは自国へ帰還するなら捕虜をすべて解放し、財産の持ち出しを認め、貧困者や子供には贈り物まで持たせた。城攻めの最中に結婚式があればその場所への攻撃を中止するなど、サラディンの英雄譚は数多く、 敵味方に愛されたという。
サラディンとクラック・デ・シュバリエ
サラディンとクラック・デ・シュバリエ
クラック・デ・シュバリエのゴシック式回廊のアーチ天井
十字軍時代、城内はゴシック式で統一された
エルサレムを落としたサラディンは、十字軍国家と戦い、次々に版図を広げていく。1188年、サラディンはクラック・デ・シュバリエを包囲するが、近くでその城をひと目見ると攻略をあきらめて包囲を解き、軍を進めたとい う。
同年、サラディンは断崖絶壁の頂に建てられたサユーン城砦をわずか2日で落としてみせる。この砦はサラディンに敬意を込めて、20世紀にカラット・サラ ディンと呼ばれるようになった。
1189年、エルサレムを奪われたローマ・カトリックの三大王、イングランド王リチャード1世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世がまとまって第3回十字軍を結成。アッコンを攻略して臨時のエルサレム王国を建国し、サラディンを追い詰める。リチャード1世率いる十字軍は捕虜を大虐殺するなど相変わらず凄惨な戦争を仕掛けたが決定打はなく、1192年、サラディンはこれを退けてついに休戦協定を結ぶ。この協定でサラディンはキリスト教徒に聖地巡礼さえも認めた。
サラディンはこれを見届け、翌1193年、ダマスカスで病没。サラディンの廟はいまもダマスカスに残されているが、もともと蓄財をせずに財産は部下にすべてばら撒いてしまうため、死したときも財産はほとんどなく、棺も木製の非常に質素なものだった。
十字軍とふたつの城が与えた影響
十字軍とふたつの城が与えた影響
クラック・デ・シュバリエの外壁の守備塔内部
マムルーク朝時代に取り付けられたもので、アラブ式の造り
十字軍の遠征によって、アラブの文化とキリスト教の文化は大きく融合し、 双方の文化に大きな影響を与えた。
城についても同様で、ビザンツ式やアラブ式が融合したカラット・サラディンと、ゴシック式をベースにアラブ式が融合したクラック・デ・シュバリエの築城は、ヨーロッパからアラビア全土に広がって、建築とテクノロジーに関して新しい文化を切り拓いた。
特に堅牢不敗を誇ったクラック・デ・シュバリエの築城はその後のヨーロッパの城砦の基礎となったという。この城は1271年にイスラム軍バイバルスによって落とされるが、このときも伝書鳩に「城を開けよ」というトリポリ伯 からの偽文書を運ばせるという計略によって開門させたといわれている。
クラック・デ・シュバリエを出発、次の目的地レバノンのバールベックへ向かう
国境では物々しい警備の中、出入国手続きを終えてレバノンへ
レバノン
レバノンのルートマップ
(シリア国境→バールベック→アンジャル→ シリア国境→ダマスカス)は、☛ こちら。
レバノン入国後ガイドの出迎えを受け、世界遺産「バールベック」へ
バールベック
バールとは、もともとフェニキア人の信仰していた神で、蘇生の象徴「夏」と深く関連していたといわれている。 ユダヤ教の「ヤハウェ 」に対峙する神として、カナン地方で崇拝されたことは、旧約聖書にも出ている。
フェニキア時代のバールベックは農耕に結びつく重要な土着信仰の中心地であった。 この地は紀元前64年に口ーマ領となり、 アウグストゥス帝 以後歴代の口ーマ皇帝が200年を超える歳月をかけて口ーマの神々とフェニキアの神々を習合して古代世界最大の聖域をつくりあげた。 壮大なジュピター神殿やバッカス神殿をはじめとする神殿群は口ーマ帝政期最大規模のものといえる。
Photo credit: Sleiman Amhaz |
ベッカー高原の主神
ベッカー高原の主神
バールベックの位置するベッカー高原は、西のレバノン山脈と東の アンティ・レバノン山脈のあいだに広がる高原で、 中央をリタニ川が流れ、古代から肥沃な土地として知られていた。
バールベックとは「ベッカー高原の主神」を意味する、ここにフェニキアの神ハダド(バール)が祀られていた事に由来するといわれ、本来はフェニキア系の神々の聖地だったと考えられる。
ハダド=バールは 天空と嵐の神、母神アナトは水と豊穣の神であり、子なる神アリヤンは植物の霊を体現していたとされる。
前330年アレクサンドロス大王(在位 前336一前323)がこの地を征服し、フェニキアの天空の神ハダド=バールをギリシアの太陽の神ヘリオスになぞらえた。紀元前323年にアレクサンドロス大王が亡くなると、ベッカー高原はエジプトのプトレマイオス朝の領土となリ、バールベックはヘリオポリス(太陽神の街)と改名された。
ローマ帝政期最大の神殿群の全貌
ローマ帝政期最大の神殿群の全貌
バールベック遺跡俯瞰図
紀元前64年にローマ に征服されたバールベックは、やがて絶項期を迎えた。 ローマ人はフェニキアの主神に犠牲(いけにえ)を捧げ、彼らの崇拝するジュピター神と習合させたのである。 バールベックはローマ帝国の聖地となり、ローマ人は200年以上の歳月をかけてジュピター、バッカス、ヴィーナスに捧げるためのローマ帝政期最大の神殿群を建設した。 ローマ帝国が宗教の習合を認める政策をとったおかげで、この街は古代世界でもっとも有名な巡礼地となった。 ローマは征服した地方を武力で抑えるだけでなく、宗教を一種の統治手段として利用した。 つまり、各地方で崇拝されていた神々をも、新しい支配者ローマの神々と並んでひとつの神殿に安置したのである。
このような思想は建築物にも現れている。皇帝フィリプス・アラブス(在位244-249)時代に建てられたジュピター神殿の前庭はその一例で、 独特の形態の表清豊かな六角形プランの建築である。西ヨーロッパではこのような形の建物は知られていないことから、このジュピター神殿はこの地方の建築様式を取り入れた建物であるといえる。
1.ジュピター神殿全域
最初に建てられたジュピター神殿はアウグストウス帝(在位前27一後14)時代に建設が始まった。皇帝自らがその設計者だったともいわれる。 この神殿はローマの宗教建築の規範にのっとって高い基壇の上に建っているが、東西の伝統が混ざり合ったヘレニズム期の建築の代表作でもある。 大神殿、方形の大庭園、六角形プランの前庭、プロピュライア(前門)からなるこの巨大な神殿は、当時のほかのどの建物よりも大きなものにしようと計画され、60年、 ネロ帝(在位54-68)の時代に完成した。 なお、ネロ帝以降の皇帝も手を加えたり、手直しをしようとしたが、うまくいかなかった。そのため、完成はネロ帝の時代とされる。
[ ジュピター神殿]
古代では最大規模といわれるこの神殿の大きさがどれほどのものであったかは、 遺跡に残る巨大な6本の列柱から容易に想像できる(もともとは、54本の巨大列柱に囲まれ、幅50m、奥行き89mの大神殿であった)。 高さが20mを超える柱は直径が2.2mあった。柱の上部をアカンサス(葉アザミ)の葉をモチーフとした コリント式柱頭が飾った。その柱が支える高さ5.3mの豪華なエンタブラチュアは、ローマ帝政期のコリント式建築のもっとも複雑に発達した様式を示している。その上部を飾るライオンの頭部は雨樋の装飾である(屋根の水を集めて、このライオンの口から、雨水が落ちる仕掛け)。 この豪華で巨大な柱は、3本の柱を積み重ねてあり、つなぎ目には3つの穴が空けられていて、ここに焼いた鉄棒を入れて押し付けて接合したといわれている。
柱の上部を飾るアカンサス(葉アザミ)
6本の列柱とライオンの頭部(雨樋い)の装飾
ライオンの頭部(雨樋い)の装飾
接合のため3つの穴が空けられた直径2.2mの巨大な柱
[ 大広場 ]
紀元100年ごろ、この神殿の大広場中央に大小2基の祭壇が設けられその左右に犠牲の動物を清める池がつくられた。 そして150年ごろにはこれらを128本のバラ色の列柱が取り囲む大広場が完成した。
大広場・左手前は大祭壇跡(石積)、正面奥は大神殿
大広場
大広場を取り囲んでいた列柱の一部
[ 六角形プランの前庭とプロピュライア]
最後にはカラカラ帝(在位211- 217)時代に建設されたプロピュライア(前門)と大広場をつなぐ形で前述の六角形プランの前庭が、250年ごろに建設された。
プロピュライア(前門)
六角形プランの前庭
2. バッカス神殿
ジュピター神殿域の南西に建つバッカス神殿はローマ皇帝 アントニヌス・ピウス(AD138-161)時代に建設された。 屋根以外はほぼ原形をとどめるという、ローマ時代の神殿の中で最高の保存状態を保っている。 この壮麗な神殿は、ジュピター神殿とよく似ているが、 バロック的装飾を彷彿とさせる壮麗かつ豪華な装飾が見る者を圧倒する。
外側の列柱廊ではコリント式の円柱が支える格天井をアラベスク模様が飾り、格間(ごうま)には神話の神々か表されている。
下に地震で落ちた女性の像があったが、蛇を持っていることからこの女性はクレオパトラ で、女性の下に見える波の形はナイル川 を表すと考えられている。
コリント式の円柱
格間(ごうま)
クレオパトラの彫像
バッカス神殿の前室から入り口をとおして大広間の内壁が見える。本殿の大広間へは前室を通り、アラベスク模様で飾られた框(かまち)に囲まれた入り口から入る。内壁は溝彫りのあるコリント式の付け柱と円形アーチの壁龕(へきがん)などで飾られ、2層の構成になっている。
神像を安置する至聖所のある大広間は、さまざまな 文化が融合しあったことを示す新たな例である。 ロー マの建築家たちはバッカス神殿にフェニキア起源の小さな至聖所を組み込んだのである。 こうして習合した宗教から生まれた大きな石彫がふたつ今も残っている。 かつてはこの彫刻の上に飾り天蓋(てんがい)を支える細い柱か立っていた。 ここにはまた、アリアドネやバッカスの巫女(みこ)たちの像とともに、バッカス神の彫像がある。
前室から入り口をとおして大広間を見る
アラベスク模様で飾られた入口の框(かまち)
大広間のコリント式付け柱
コリント式付け柱と円形アーチの壁龕の2層で構成された大広間の内壁
3.ヴィーナス神殿
3世紀初め、ジュピターとバッカスの大神殿域から離れて南東にヴィーナス神殿か建設された。馬蹄型プランの至聖所の前には4本の柱が立つ玄関廊があり、 5本の列柱がが至聖所を取り囲む。 至聖所側の外観は バ口ックを彷彿させる。 ジュピター神殿やバッカス神殿と比べれば、このヴィーナス神殿は規模が小さく、こぢんまりしている。だが、装飾はバッカス神殿のものよりもいっそうバロック的傾向が強い。ただし、保存状態はよくない。
世界最大の切り石
世界最大の切り石
ジュピター神殿には土台として使われている3つの巨石「バールベックの巨石」がある。この巨石は、通称「トリリトン」(驚異の三石)と呼ばれる組み石で、重さは650t-970t。人力では15,000人の人間が必要な計算になるが、それだけの人間の力をまとめて石に働かせるのは現実問題として不可能であるとされている。
ジュピター神殿の「トリリトン」
The image from Wikipedia
ベイルートに通じる道を約1キロメートル南西方向に向かうと、左手に世界最大の切り石が置かれた石切場がある。 ここには、長さ21.5m、高さ4.2m、厚さ4.8m、重さおよそ2000tの入念に加工された大きな切り石がひとつ放置されていた。 おそらく大神殿を取り囲む石材として加工されたものであろう。イスラム教徒はこの大石を「南の石」とよんでいる。
石切り場に放置された巨石
The image from Renegade Tribune
バールベックを発ち、もうひとつの世界遺産「アンジャル」へ向かう
アンジャル
ベッカー高原の豊かな自然に恵まれたアンジャルは、ダマスカスとベイルートを結ぶ隊商路の中継地として古くから栄えた。 8世紀初頭、ウマイヤ朝の力リフ、アル・ワリード1世の命により、イスラム都市アンジャルが建設された。
計画的につくられたこの街はレバノンに残るウマイヤ朝の貴重な都市遺跡で、イスラムの権力者達の保養用の宮殿、モスク、公共浴場などの跡が残っている。
古い宮殿の優美な2層のアーチと列柱付き大通りの交差点に建つテトラピュロンが、この街の景観を特徴づけている。 直交する2本の大通りで4区画に分割されているアンジャルの街は、各区画がさらに直交線で整然と区画された計画都市であった。
大通り
テトラピュロン
宮殿跡
宮殿の優美な2層のアーチ
アンジャルを後にし、再びシリアのダマスカスに向かう
2005年に終結したレバノン内戦の混乱がまだ尾を引いているさなかのベッカー高原は、2006年5月当時も依然として緊張状態が続いていた。 豊かな自然に恵まれた土地という平和的なイメージには程遠く、 とくにアンジャルからダマスカスへの道路は、レバノンの首都ベイルートとシリアの首都ダマスカスを結ぶルート上ということもあり、 厳しい警備体制が敷かれていた。 2006年7月12日にはイスラエル軍によるレバノン侵攻が勃発した。
警備の厳しい国境の検問所を通りシリアに入国、ダマスカスに向かう
シリア
再度のダマスカス
[ 再度のダマスカス]
ダマスカス到着後、夕食のためレストランへ
レストラン前で
Photo credit: T.Miyazaki
夕食後、シャム・パレス・ダマスカス ホテルへ
シャム・パレス・ダマスカス (Cham Palace Damascus) 泊。
[5月21日]
ホテルにて朝食後、ロビーにて
Photo credit: T.Miyazaki
Photo credit: T.Miyazaki
Photo credit: T.Miyazaki
Photo credit: T.Miyazaki
ダマスカス空港へ向かう
悠久の歴史を刻む “文明のゆりかご” 大シリアに別れを告げ、
ダマスカスを出発 ドバイへ
アラブ首長国連邦
ドバイ
[ドバイ]
The image from Wikipedia
ドバイは、アラブ首長国連邦を構成する首長国の一つで、ドバイ首長国の首都としてアラビア半島のペルシア湾の沿岸に位置している。
摩天楼の連なる幻惑的な都市国家ドバイは、中東でも随一の繁栄を誇っている。 しかし、市の中心部から車で50分程行くと、もうそこは砂漠地帯。そう、砂漠が海に面したところに世界でも有数の国際都市が出現したのである。
ドバイのルーツは、遥か昔のミノア文明初期へと遡る。 現在ドバイが位置する場所は、かつては広大なマングローブの湿地であった。 紀元前3000年までにこの湿地は干上がり、居住が可能な土地となったのである。 青銅器時代の狩猟を営む遊牧民が初めてこの地域に定住し、紀元前2500年までに彼らは立派なナツメヤシ農園を定着させていったが、これがこの場所を農業向けにうまく活用した初めての例だと考えられている。 穏やかな農耕時代が数世紀続き、5世紀にはオマーンと現在のイラクを繋ぐ貿易ルートに沿ったキャラバンたちの中継地であった。
その後、ペルシャ湾に面し、漁業や真珠の輸出を産業の柱とする小さな漁村だったこのドバイに、アブダビの首長ナヒヤーン家と同じ バニヤス族(多くのベドウィンが含まれる大部族)のマクトゥーム家が、1830年代にアブダビから移住。 これに伴ってドバイ首長国が建国され、現代に至るドバイの歴史が始まった。1853年に他の首長国と同時にイギリスの保護国となった。
1966年のドバイ沖の海底油田の発見が、以後の大発展の基礎を築いたことは言うまでもない。 その後も発展を続け、21世紀に入る頃には、従来からの近代化の波を経て、中東における貿易・商業の最大の中心地と呼ばれるまでのメトロポリスに変貌し、現代に至っている。
ドバイ到着後、乗り換え時間を利用して“デザートサファリ”を楽しむ
[ デザートサファリ]
デザートサファリとは、4WD車に乗って砂をまき散らしながら、猛スピードで砂漠を駆け巡るツアーのこと。 どこまでも続く砂漠の真ん中で、砂の山を次々と登ったり、降りたり、滑ったり。ジェットコースターとはまた違うスリリングなアクティビティを楽しんだ。
その後ラクダの騎乗体験をし、キャンプサイトでバッフェディナーとベリーダンス・ショウの鑑賞という、盛りだくさんの内容であった。
砂漠から眺めたドバイのスカイライン
The image from The Cutielicious
猛スピードで砂漠を駆け巡る
The image from THA
ベリーダンス・ショウ
Photo credit: Miyu Kohama
砂漠のキャンプサイトを後に空港へ
深夜、ドバイを出発。関空経由で羽田へ。
機内泊。
5月22日 夜、羽田に到着。
CLUB TRAVELERS
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