【アンジャル】

 

 

アンジャル1s

 

 

[灌漑農耕の中心地アンジャル]

 

レバノンはまさしく遺跡の宝庫である。しかし、7世紀から8世紀にかけて、西はイベリア半島から東は中国国境にいたる広範な地域を支配したウマイヤ朝の痕跡はほとんど残っていない。
そうしたなかでウマイヤ朝のカリフ、アル・ワリード1世(在位705-715)の王宮都市アンジャルは、都市の構造がよくわかる貴重な遺跡のひとつである。

 

アンジャルという地名のもとになるゲラはギリシア・ローマ時代の碑文のいくつかに、戦いの名前とともに記されている。そしてつづくイスラーム化の過程でアイン・アル・ジャール(岩の泉)に変わり、最終的にアンジャルとなった。

 

アンティ・レバノン山脈の麓にあり、近くをリターニ川が流れ、豊かな泉水に恵まれたアンジャルは、灌漑農耕の中心地であった。 古くからダマスカスとべイルートとを結ぶ隊商路の中継地として、また交易地として栄えた。

 

 

[ウマイヤ朝の都市遺跡]

 

1940年にフランスの考古学者ジャン・ソヴァージュは、アンジャルの遺跡はカルキスのものでもなければ他の先住者のものでもなく、ウマイヤ朝の遺跡であるとの結論を出した。その後1949年からつづけられ、詳しい発掘調査の結果、このことが証明された。またシリアで発掘されたカスル・アル=ヘイルの遺跡の航空写真との比較からも、アンジャルがウマイヤ朝時代の遺跡であることが明らかになった。

 

632年にムハンマド(マホメット)が死ぬと、その後継をめぐって対立が生じた。にもかかわらず、イスラム勢力は656年までにペルシア、エジプトおよひ近東を席捲し、アナトリア(小アジア)と国境を接するにいたった。

 

661年、第4代カリフのアリー(在位656- 661)に代わってエルサレムを本拠地とするシリア総督ムアーウィヤ1世がカリフとなり、 ウマイヤ朝がイスラム世界の支配者となった。以後、ウマイヤ朝の支配は750年までつづいた。 その間にイスラム世界は、西は北アフリカからイベリア半島、東は遠く唐と国境を接するまでに広がった。

 

勢力を拡大したウマイヤ朝は最初首都をメディナに置き、ついでエルサレムに、そして最後は商都ダマスカスに遷都した。 同時にシリア、パレスティナ、ヨルダン地方にも多くの建造物を残した。

 

イスラムの建築様式は当時まだ確立していなかったが、アラビア半島を出たイスラーム教徒は版図拡大の過程でさまざまな文化と出会い、それを受容していった。放置された基礎壁やその他の建造物を新しい大規模な建造物のために再利用することもしばしば行われた。 705年にアル・ワリード1世が建設を命じたダマスカスのウマイヤ・モスクはこのようにしてできた好例である。ウマイヤ・モスクにはかつての聖域の外壁が活かされている。

 

ローマ時代やビザンティン帝国時代といった古い時代の遺構の上に築かれたアンジャルの豪華な宮殿もまた同様に、すでにあった建造物の建材を再利用して建てられた。

 

40の円塔か張り出した城壁に囲まれた東西350メー トル、南北385メートルの長方形のアンジャルの街では、城壁の東西南北の各中央部分に大門が設けられていた。ローマの都市を模してつくられた城壁の内部は、大門を結んで直交する10メートル幅の2本の大通りによって4区画に分割されていた。南北にのびる大通りはカルド、東西にのびる大通りはデクマヌスとよばれた。この大通りの下には主要な下水道設備が敷設されている。

 

街の中心部、2本の大通りの交差点の四隅にはそれぞれ石の台座が築かれ、その上に4本の円柱が立っていた。現在、そのうちの1基か復元されている。このテトラピュロン(四面門)とよばれるモニュメントは、おそらくビザンティン帝国時代の凱旋門がモデルになったか、あるいはフォルム(広場)に起源をもつと考えられる。 テトラピュロンはパルミラの列柱付き大通りにもその遺構が見られる。

 

建物の壁面で目を引くのは、レンガと切り石の層である。単なる装飾帯のように見えるが、この壁面工法は非常に実際的な理由をもっている。このように「トルテのように層を重ねる工法」は、地震に際して緩衝装置 として作用し、建物を地震から守ったのである。

 

工人たちは自分の仕上げた石に各自特有の印を刻むことが多かった。 その印から考古学者は、アンジャルの大工たちがイラクから来たネストリオス派のキリスト教徒であったり、美術識人たちがエジプト土着のキリスト教徒であるコプトであったことを知ることができた。

 

カリフはアンジャルに王宮と公共浴場、そして随伴者のための住居とモスクをつくらせた。街の南東区画に建つ王宮の一部は今日復元されて、2層のアーチの優美な遺構がかつての豊かで洗練された文化を現代に伝えている。北東区画の南側に建てられた第2宮殿は主宮殿よりも小規模な造りで、ビザンティン美術を思わせる無数の模様や飾りのついた彫刻で美しく飾られている。この第2宮殿は力リフの妻たちが暮らすため に建てられたというのがもっとも可能性の高い推測である。

 

街の北側にある公共浴場は明らかに古代ローマの公共浴場を模倣したものである。2本の大通りに沿ってたくさんの商店が並び、 その前にアーケードが設けら れていた。そこに立つそれぞれの柱は、高さや幅も違えば、柱頭の形や装飾も著しく異なったものが使われている。このことは、ベカ平原にはローマ時代とビザンティン帝国時代の建造物がきわめて数多く散庄していたことをうかがわせる。

 


 

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