【 大シリアの歴史 】

 

 

 

大シリア版図

 

現在の ヨルダンシリアレバノンパレスチナを含む イスラエルにまたがる地域は、古くから「シリア」と呼ばれていた。現在では、シリア共和国と区別するため「大シリア」とも呼ばれている。

 

中東におけるシリアが地政学上いかに重要な位置を占めていたかは、「中東を制するものは、まずシリアを制す」と言う言葉にもよく表されている。古代より各国は競ってこの地を治めようとしたが、紀元前4世紀の セレウコス朝と紀元7世紀の ウマイヤ朝を除いて、この「大シリア」に統一国家が成立したことはない。

 

ヨルダン・シリア・レバノンという国に分けられたのは20世紀初頭の 第一次世界大戦後になってからのことである。以下、この地域の歴史について先ず、古代から第一次世界大戦前までを「大シリア」の歴史とし、それ以降は「現代史」としてこれら3国の歴史を紹介することにする。 

 


 

 

―[目次]―

 

[先史~古代]

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大シリアの歴史

 

シュメールの彩文土器

 

メソポタミア文明の創造者シュメール人

 

世界で最初に生まれた文明が メソポタミア文明である。 紀元前3500年くらいには都市国家が成立して、文明といえるものになった。メソポタミアとは川のあいだという意味で、 ティグリスユーフラテスの二つの川にはさまれた地方をさす。現在の国名でいうと イラクだ。このメソポタミア地方の川下、河口付近にはじめての文明ができた。文明をつくりあげたのはシュメール人であるが、民族系統は不明だ。シュメール人はメソポタミア地方に ウル (現イラクのテル・アルムカイヤル遺跡)、 ウルク (現イラクのワルカ遺跡)、 ラガシュ (現イラクのテル・アル・ヒバ)など、多くの都市国家を築いたが、統一国家が出来ることはなかった。

 

シュメール人の残した文化は後世に大きな影響を与えている。まずは、暦(太陰暦)、それから数字の60進法だ。これは、現在も時間(一時間は60分)で使われている。土器は彩文土器が発掘されている。文字は、くさび形文字を発明したし、また、ハンコ、印章もシュメール人が最初なのである。

 


 

[雑学]

 

「エデンの東」

 

旧約聖書にはシュメールの影響がかなりある。 たとえば、神が世界と人間(アダムとイブ)を創造する話、1週を七曜にする話、そして地上の楽園「 エデンの園」の話だ。

 

「神との約束を破った二人はその怒りに触れ、エデンの園を追放されてしまう。追放されたところがエデンの東で、そこは、地にはいつくばって厳しい労働をしなければ生きていけないところであった。」

 

ジェームズ・ディーン主演の「エデンの東」という映画があった。楽園のすぐ隣だが、そこは楽園ではない、それがエデンの東なのだ。そう思って見るとこの映画は一段と深いものがある。

 

エデンの園はシュメール人が住んでいた実在の場所だといわれている。ラガシュ(現イラクのテル・アル・ヒバ)と ウンマ (現イラク)という二つの都市国家が、紀元前2600年~紀元前2500年頃に「グ・エディン」(平野の首)という土地をめぐって戦争を繰り返していたが、どうもこのグ・エディンがエデンの園のモデルではないか、といわれている。極めつけは、後述の「 ノアの方舟」の話だ。

 

これらの話は、5000年前のシュメール人が残した物語「 ギルガメシュ叙事詩」という物語が元になっている。

ちなみに「もののけ姫」もギルガメシュ叙事詩を元に脚本が作られていたのだそうだ。

 


 

 

オリエント文明圏の発祥とセム系民族の起源と発展

 

大シリアは、世界4大文明のうちのふたつ、エジプトメソポタミア (現在のイラク)のちょうど中間に挟まれている。この2大文明とその周辺には、 オリエントと 呼ばれる一大文明圏が生まれた。特に、 アラビア砂漠の北側に沿う、 メソポタミアから シリアパレスチナにかけては、大河やオアシスの水に潤されて最も豊な農耕地帯を形成していたのである。いわゆる「 肥沃な三日月地帯」と呼ばれるエリアだ。このオリエントの地で早くから活動していたのが、 セム系民族であった。

 

セム系民族の祖先は、古くからアラビア半島に住んだとされている。セム(アラビア語でシャム)とは、一説には「旧約聖書」の創世記に出てくる「ノアの方舟」に由来していると言われている。
創世記によれば、人間は神に背き、洪水によって滅ぼされてしまうが、神の教えを守ったノアとその家族は方舟に乗って生き延びた。ノアの長男がセムであり、その子孫がセム族であるという説だ。

 

しかし、現在では言語学上の意味で用いられていて、アラビア語、ヘブライ語、アラム語(シリア語)、カナン語、アッカド語を言語として話す人々をセム系民族と呼んでいる。

 

さて、 大シリアに住み着いた最初のセム系民族は、アムル(アモリ)人カナン人だ。紀元前2500年頃、遊牧生活をしながら アラビア半島から北上し、アムル人は中央シリアからメソポタミアに、カナン人はシリア中部の地中海沿岸地方にそれぞれ定住したのであった。

 

アムル人は、紀元前1800年頃、バビロンを中心として バビロン第1王朝 (古バビロニア王国)を樹立した。
あの ”目には目を ”の復讐法で有名な「ハンムラビ法典」を作った王朝だ。

 

一方カナン人は、地中海沿岸に多くの地方国家を建設した。 トリポリビブロスベイルートシドンの他、やや陸側に エルサレムエリコなどを建てたのである。
これらの都市国家は互いに独立して栄えるが、政治的に統一されることはなかった。しかし、特に海上貿易によって大いに繁栄したのだった。後に、同じ海洋民族である ギリシャ人はこのカナン人のことを「フェニキア」人と呼ぶように なったのである。

 


 

[雑学]

 

「バベルの塔の物語 (バビロン)」

 

バベルの塔の想像図

 

旧約聖書の『 創世記』に出てくる伝説上の巨大な塔のことである。
古代メソポタミアの中心都市であった バビロン (アッカド語で神の門の意味)にあったといわれ、古代メソポタミアに多くみられたジッグラト(神殿)という階段状の建造物だとも言われている。

 

人間が天まで届きそうな高い塔を建てると、これを知った 神が、「神に届こうとする不届きな振る舞いだ」と怒って この塔を打ち壊してしまったといわれている。しかし、聖書を読むとそのようなことは書いていない。理由は解らないがとにかく神は塔を壊し、人々はちりぢりになり、お互いに話す言葉が通じなくなった、という話なのである。
そして、そのバベルの塔のモデルがやはり シュメールにあったらしいのだ。

 

このジグラット(神殿)の遺跡はたくさん残っており、これがバベルの塔のモデルだといわれている。

 

「アブラハムの物語 (イスラエルの12氏族)」

 

旧約聖書の『 創世記』によれば、メソポタミア地方の ウル (現イラク、ナシーリアの近く)に生まれた アブラハムは、唯一神を信じ帰依した完全に純粋な一神教徒であった。 ユダヤ教キリスト教イスラム教などを信じるいわゆる聖典の民は、いずれも共通に彼を「信仰の父」とみなし厚く尊敬しており、そのためこれら3宗教はアブラハムの宗教と呼ばれている。

 

かつてはアブラムと呼ばれ、それが神との約束によりアブラハムと名前が変わったのであった。後に父や甥とともに約束の地 カナン ( パレスチナ)へと赴くことになる。彼は老齢になっても嫡子に恵まれなかったが、神の言葉「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」「あなたの子孫はこのようになる」(旧約聖書 創世記15:5)の通り、妻サラとの間に嫡子 イサクを授かったのだ。

 

ユダヤ人はイサクの子 ヤコブを共通の祖先としてイスラエル12部族が派生したとし、アブラハムを「父」として崇め、また「アブラハムの末裔」を称している。

 

パレスチナのヨルダン川西岸地区 ヘブロンにはアブラハムの墓廟あり、ユダヤ教とイスラム教の聖地として尊崇されている。

 

「モーゼの物語 (出エジプトと十戒)」

 

ネボ山頂・青銅の蛇

 

旧約聖書』( 創世記)によれば、 モーゼは、エジプトで ファラオの圧政に苦しんでいた 古代イスラエル(ヘブライ)人を率いてエジプトを脱出し、「約束の地」カナン(現在のパレスチナ)まで導いた、古代イスラエル(ヘブライ)人の宗教的指導者である。出生後ナイル川の葦の原に捨てられていたところをエジプトの王女に拾われ、王宮で成人したモーゼは神 ヤハウェの召命を受け、当時エジプトで奴隷のように苦役を強いられていたイスラエル人を率い、エジプトを脱出したのであった。

 

彼は「海が割ける」(紅海)という奇跡により追手の軍団を振り切って シナイ半島に入り、この地でヤハウェと契約を結んだ。イスラエル(ヘブライ)人はヤハウェの民としてこの神を唯一の神と崇めることになり、 十戒を授けられたのであった。そして、荒野をさまようこと40年、飢えと渇きと疲労に不満を募らせるイスラエルの民を苦難の末、「乳と蜜の流れる」約束の地カナンに導き、自らはその地に足を踏み入れることなく「ネボ山」で没したといわれている。

 

近年の研究の結果、聖書の語るこれらの出来事はその大筋において歴史的真実性に近いことが明らかにされており、その中心人物としてモーゼについても実在性が高まっていて、一般に、第19王朝ラムセス2世治下の紀元前1290年ごろと考えられている。

 


 

フェニキア人の台頭

 

フェニキア人は、紀元前1200年頃に目覚しく活躍し、 クレタやエジプトが衰えた後の地中海貿易を独占した。 カルタゴをはじめ、多くの植民都市を建てたのもこの頃だ。レバノン山脈で伐採したレバノン杉という良材で船を造り、地中海諸地域をはじめ大西洋、紅海、ペルシャ湾、アラビア海へも乗り出し、紀元前600年頃に ギリシャ人が台頭するまで、東地中海の海上貿易を支配したのであった。

 

彼らの貿易品には、ガラス器や象牙細工、オリーブ 油、ぶどう酒、小麦、木材、金属細工ほか、さまざまな鉱物や植物類、奴隷まであった。特に有名だったのは、貝から採れる紫色の染料(貝紫)と紫染めの織物だったという。フェニキア人という呼び名も、紫色を表すギリシャ語に由来しているといわれている。

 

さらに、フェニキア人の果たした世界史への大きな貢献は、アルファベットを発明し、それを伝承したことだ。彼らは貿易の必要上、おもにエジプトの象形文字を簡略化してフェニキア文字を作った。これは後にギリシャに伝えられてアルファベットの起源となったのである。

 

フェニキアの都市ビブロス

 

ダマスカスに王国出現

 

紀元前1500年頃、やはり アラビア半島から アラム人が北上し、レバノン山脈以東に住み着くようになった。彼らはやがて数を増し、 アムル人フリル人ヒッタイト人などを吸収し、やがて ダマスカスへ入って行ったのであった。

 

紀元前1200年末までにシリア各地を支配し、紀元前1000年末にはベン・ハダド王朝を建設した。フェニキア人が海上貿易を中心にしていたのに対し、アラム人はダマスカスを中心に陸上交易を独占し、フェニキアのさまざまな特産品を、ラクダを用いる隊商で各地に送り込んだのである。また、彼らの商業活動とともにアラム語が広まり、のちに アラブ人が出現するまで、西南アジアの商業用語として広い範囲で使われていたのだ。 イエス・キリストも話していたといわれるこのアラム語も、現在はほとんど使われていないそうだが、 シリア・アラブ共和国のいくつかの村ではまだ話されている。

 

パレスチナの地とユダヤ教の成立

 

同じ頃、シリア西南部の パレスチナにはセム系民族ヘブライ人(自らをイスラエル人と称した)が定着していたが、ほかにもエーゲ海方面やメソポタミア、エジプトからの移民、また非セム系のフリル人(シリア地方に住んでいたセム人などの混成民族といわれる遊牧民)、ヒッタイト人(現在のトルコに栄えた王国)など複雑な構成をなしていた。
このパレスチナの地は、長い間エジプトの支配を受けてきたのだ。シリアの中でもフェニキアとともに「乳と蜜の流れる地」といわれるほど沃野に恵まれ、海上貿易や隊商交易の中心地として栄えた特別地区であった。

 

紀元前1200年頃になると、パレスチナに住むイスラエル人の12の部族は交流しはじめ、共通の神ヤハウェ(エホバ)を崇拝しながら団結するようになった。そして先住民 ペリシテ人との闘争が始まった。パレスチナとは「ペリシテ人の地」という意味である。

 

紀元前1100年頃にはイスラエル人の王国が建設され、2代目 ダビデ王の時代にペリシテ人を撃退して王国を拡大し、エルサレムを都としてヤハウェの神殿を建てたのであった。ダビデの子 ソロモン王の頃には王宮や神殿が建てられ、「ソロモンの栄華」といわれるほどに栄えたのである。しかし王族の贅沢な暮らしのため、重税や強制労働の負担が民衆の不満を招き、ソロモンは没落してしまう。
その後、北の イスラエル王国と、南の ユダ王国に分裂してしまった。

 

イスラエル王国は アッシリア帝国に紀元前721年に滅ぼされ、ユダ王国はアッシリアに代わった 新バビロニア王国に滅ぼされてしまったのだ。このとき、新バビロニア王国の ネブカドネザル王は、ユダ王国の約5万人を首都 バビロンに強制移住させたのだ。これが、「 バビロンの捕囚(紀元前586年)」といわれているものである。
彼らはここでかなりの自治を認められ、農耕や通商、学芸、労働などに従事した。当時、新バビロニアの首都、バビロンは世界最大の都市となっていたが、今でも謎を残す、空中庭園などの巨大建築物が次々と立てられ繁栄が続くなか、道徳は退廃していった。
このようななかで、捕囚生活を送っていたユダ王国の人々は苦難の中でヤハウェ神に対する信仰をいっそう強め、民族として結束していったのであった。

 

紀元前539年に、 ペルシャキュロス2世 (アケメネス朝ペルシャ)が新バビロニア王国を滅ぼすと、捕囚となっていた ユダヤ人たちを解放した。ユダヤ人は帰国し、エルサレムにヤハウェの神殿を再建し、ペルシャの支配下で ユダヤ教を成立させたのであった。

 

ユダヤ教は、後に キリスト教の母体となり、 イスラム教にも大きな影響を与えたことはいうまでもない。

 

この ユダヤ王国は紀元前70年 ローマに滅ぼされて、その後ユダヤ人の多くは ディアスポラとなり世界各国に散らばったのであった。しかし、彼らはユダヤ教を自民族のアイデンティティとして守りつづけた。シュメール人もアッシリア人も、アラム人も、フェニキア人も現在は存在しないが、ユダヤ人は現在でも世界中で活躍している。

 

 


 

[雑学]

 

「ダビデ王の物語」

 

フィレンツェ ・アカデミア美術館のミケランジェロの最高傑作といわれる、

ダビデ像

 

旧約聖書の『列王記』『サムエル記』によれば、 古代イスラエルの2代目の王 ダビデは、羊飼いをしていた少年時代、神から将来のイスラエル王に任命される。当時 ペリシテの圧迫で、イスラエルは苦境に陥っていた。そのようなイスラエルとペリシテとの戦いの中、ペリシテの巨人戦士 ゴリアテはイスラエル戦士との一騎打ちを申し入れてきた。どちらか負けたほうが奴隷になるという条件だ。イスラエルには彼に立ち向かえるだけの戦士はいない。全員奴隷にされてしまうと意気消沈しているところへダビデ少年が現れ、羊飼いの姿のままゴリアテに立ち向かっていったのだ。結果はあっけなく、ダビデ少年の放った石礫で巨人ゴリアテを倒してしまったのである。少年ダビデは、この劇的な勝利で有名になり、その後も戦功をあげていく。やがてイスラエルの王となったダビデは、ペリシテ人との戦いを続け勝利して エルサレムを確保した。ダビデは約四十年王位にあったが、息子の ソロモンに王位を譲り、この世を去ったのだ。 ユダヤパレスチナの争いは、この頃から始まっているのである。

 

バビロン捕囚以後、救世主(メシア)待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようになった。 新約聖書では、 イエス・キリストはしばしば「ダビデの子」と言及されている。

 

「ソロモンの栄華」

 

嘆きの壁

 

ダビデの子ソロモン(原発音では「シェロモー」で、平和に関連する意味があるようだ。アラビア語でも平和は「サラーム」)は、父 ダビデ王の遺志を受け継ぐ形で エルサレムに壮大な神殿を建設した。
このころ作られた石垣が、現在も「嘆きの壁」として残っている。 ソロモン王は、「ソロモンの栄華」と呼ばれる全盛を築いたが、その元手になったのは通商貿易による莫大な利益であった。諸国との貿易を盛んにし、アラビア半島やアフリカ東岸の諸国から、金、象牙、銘木など、さまざまな品々を輸入した。なかでもとりわけ重要な商品は、 エジプトからの馬と戦車であった。ソロモンは、これらは品々を、 シリア小アジア(アナトリア半島)の国々に運ばせたり、地中海の沿岸諸国と交易をしていたのである。

 

ソロモン王は神から知恵もさずかり、知恵者のシンボルとなったのだ。(ソロモン王が子供のことで争う二人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、後に江戸時代の大岡裁きの話にまで取り込まれている)。 シバの女王もソロモン王の知恵とエルサレムの繁栄を見て驚いたといわれている。

 

ソロモン(スレイマン)は イスラム教においても預言者の一人とされている。スレイマンは知恵に満ちていたと同時に、アラブの民間伝承である 精霊(ジン)を自由自在に操ったとされる。

 

「バビロンの空中庭園(世界の七不思議のひとつ)」

 

バビロンの空中庭園

 

この空中庭園は メソポタミア地方バビロニア帝国の首都 バビロン (現在のイラク、バグダッド辺り)の王、 ネブカドネザル2世によって紀元前600年頃に建設された。この当時、バビロンは「世界一の都」と言われるほど栄えていたのだ。

 

この空中庭園は縦、横125mの基壇の上に5段の階段状のテラスがあるピラミッド型の建物で高さは105mにもなると考えられている。庭園の各テラスには様々な植物が植えられており鑑賞用植物だけでなく、野菜や香辛料なども植えられていたという。この庭園は名前の通り空中にあったわけではなく、遠くから見た時あまりの大きさに空中から吊っている様に見えたので「空中庭園」と言われているのである。

 

この空中庭園の謎は、どうやって水を最上部まで配給しているのかという点で、近くの ユーフラテス川から汲み上げた水を使っていた事は間違いないと考えられているが、給水システムについて詳しいことは判っておらず、有力説として大型の水車を各フロアに設けてそれを使って上段のフロアへ汲み上げたのではないかと考えられている。

 

古代文字の解読により実在したことが明らかになった空中庭園だが、その後急速に衰えたバビロンの都共々、2000年後の今は土の下に埋もれ、全ては夢の跡・・・ となってしまった。

 


 

 

アッシリア、アケメネス朝ペルシャの支配

 

再びシリア中心部に話を戻す。

 

フェニキア人アラム人など諸民族が活動している間に、 チグリス川上流では、 セム語族アッシリア人が次第に勢力を伸ばすようになり、鉄製の武器と騎馬隊を使って、シリアの各都市やパレスチナの小王国などを征服していった。
紀元前671年には、 エジプトを含む アッシリア大帝国を建設し、初めて オリエントをその支配下に入れたのであった。 しかし、他民族を武力で抑えたために、民衆の反抗を招いてしまい、紀元前612年には滅びてしまった。そして、オリエントは 新バビロニア、エジプト、 メディアリディアの4国分立時代に入るのである。(アッシリアは、現在のイラク北部にあたる地域)シリアは、アラム人が建てた新バビロニア帝国(紀元前625年一紀元前538年)の支配下にあった。新バビロニアは、 バビロニアからシリアにいたる肥沃な三日月地帯を支配し、首都 バビロンは、隣国メディア(現イラン高原)の影響なども受け、西アジアの政治、経済、文化の中心地となったのであった。

 

新バビロニアの位置

 

その後、 インドヨーロッパ語族ペルシャ人(イラン民族)が アケメネス朝のもとにメディアから独立し、4国を征服してしまい、紀元前525年にはエジプトを滅して全オリエントを統一した。

 

ダリウス1世の時代には、 イランを中心に、 メソポタミアシリア、エジプト、 アナトリア(現トルコ)、東は インダス川流域にいたる大帝国を築きあげた。王は属領を州に分け、「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を派遣して、専制政治を行ったが、諸民族の習慣や宗教に対して比較的寛大で、アラム人やフエニキア人の商業活動を積極的に保護したのだ。
また、首都 スサ(現イランのファルース地方)を中心に、西は サルディス(現トルコのイズミールあたり)から ペルセポリス(イラン高原近く)まで「王の道」と呼ばれる国道を建設し、約200年間、オリエントの統一を維持したのであった。

 

ペルシャ人は、くさび形文字を表音文字化した ペルシャ語をつくり、素晴らしい建築物や彫刻を残している。約2000年にわたって西アジア史の主流をなした セム系民族に代わって、 イラン民族が多数の異民族を支配したのである。

 

ここに、初めて西アジア世界が成立することになる。

 


 

[雑学]

 

「インド・ヨーロッパ語族(インド・アーリア民族)」

 

メソポタミア地方エジプト、さらに イラン高原小アジアを含めた地域をオリエント地方というが、これは「東方」という意味で、ヨーロッパから見た表現だ。

 

メソポタミア地方に発生した シュメール人を除く 古バビロニア王国アッシリア大帝国新バビロニアなどは、 セム語系民族の世界だったが、紀元前2000年頃から、新しい民族が登場する。これが インド=ヨーロッパ語族 (インド・アーリア民族)だ。

 

紀元前2000年~1800年頃 カスピ海黒海沿岸から コーカサス地域に居た遊牧民族が北上し バルト海沿岸へ、また西方へは ギリシャや今のトルコがある小アジアへ、そして南下は今のイラン(イランとはアーリア人の国という意味)、 インドへ到達した。つまりは、中央アジアからヨーロッパ全域にわたっているのである。最も豊かだったメソポタミア地方に移住した集団が ヒッタイトミタンニカッシートという3つの国家を作った。ヒッタイト王国は史上はじめて鉄器を使用した。「旧約聖書」では ヘテ人と呼ばれ、メソポタミアの 古バビロニア帝国(バビロン第1王朝)を滅ぼし、 ラムセス2世 ( モーゼの十戒の時代)の率いる 古代エジプトと戦いその軍を破り シリアまでを版図とした。イラン高原に入った集団は ペルシア人 (後のイラン人)になる。西方に移動したグループもいて、ギリシアに南下した集団が ギリシア人イタリア半島に入った集団が ラテン人になり、黒海北岸から、 ドイツにかけて住みついたグループが ゲルマン人となったのであった。

 

ヒッタイトの鉄製戦車レリーフ

アンカラ考古学博物館所蔵

 

「幻のアッシリア人」

 

ペルシャ人に先立って紀元前800年頃に 古代オリエントを最初に統一した民族、 アッシリア人の王都 ニネヴェ (現 イラクチグリス川を挟んで モスルの対岸)には世界最古の図書館( アッシュールバニパルの図書館)があって、くさび形文字で書かれたおびただしい数の粘土板文書が出土している。しかし圧政がたたって支配下にあった諸民族の反抗を招き、帝国はわずか数十年で滅亡。以降アッシリアという名が歴史の表舞台に登場することはなかった。

 

しかし、2500年という時を経て、アッシリアの人々は歴史の生き証人のごとく生きていた。チグリス川のはるか上流、現在のイラク西北部を中心に彼らはたくましく生き続けてきたのだ。かつての栄光の民の末裔であることを誇りにして・・・。 アッシリア人と称する人々のホームページが存在するのである。
14世紀の ティムール軍による大虐殺、まだなお生々しい 第一次大戦中の トルコ(オスマン帝国)によるジェノサイド(皆殺し)。これらを乗り越えてきた彼らの歴史と由来が丹念に語られている。 インターネットは世界中に散らばった約300万のアッシリア人をつなげる交流の場として、そして民族の学校として、この幻の民に新たな力を与えようとしているのだ。

 


 

[ ヘレニズム・ローマ時代]

 

ギリシャ文明との融合

 

BC330年、 アケメネス朝ペルシャは、 ダレイオス3世の頃、 アレキサンダー大王率いる ギリシャマケドニアの遠征軍によって滅ぼされた。アレキサンダー大王は、西はギリシャから東は インダス川流域までの大帝国を築き上げた。その後、 シリアはギリシャの支配下になったのであった。

 

わずか20年ほどの短い治世であったが、アレキサンダー大王が 西アジアから オリエントに与えた影響は大変大きかったのである。各地の拠点にはアレキサンドリアという名の都市を70も建設し、 ギリシャ人を住まわせた。そして各地を結ぶ陸や海の交通路、運河などを整備して、通貨を統一したことで物資の流通も活発化したのであった。自らもダレイオス3世の娘を妻とし、マケドニアの貴族や将校約1万人を ペルシャ人と結婚させたりした。
これらの大事業によって、ギリシャ文化が東方へ普及し、王の東西文化融合の試みとともに、新しい文化が生まれたのであった。「 ヘレニズム文化」である。この影響は、 インドガンダーラ美術中国六朝文化、そして日本の 飛鳥時代の芸術の中に見られる。

 

古代ギリシャ都市

 

王は、なぜギリシャとペルシャ両世界の融合を積極的に進めたのだろうか。
それは、目のあたりにした西アジア(古代では、現在のトルコ西部の地域にあたる 古代ローマの属州アジアとその一帯を指す)の文明が、あまりにも偉大で華麗だったからだ。かれはアケメネス朝ペルシャの体制をできるだけ受け継ぎ、発展させようとした。しかし、王の死後、帝国はあっさりと崩壊し、3国に分裂してしまうのだ。 マケドニアの アンチゴノス朝 (BC306年~BC168年)、西アジアでは、 エジプトを中心とする プトレマイオス朝エジプト(紀元前305~前30年)、そして シリアイランを中心とする セレウコス朝シリア(BC312年~BC63年)だ。
このとき、 パレスチナの地は、プトレマイオス朝エジプトの領域となったのだ。セレウコス朝(シリア王国)シリアは、西アジアのほとんどを支配し、占領政策を敷いた。アレキサンダー時代の統治方法を受け継ぎ、なかでも都市建設計画は特に活発に続けられた。後にシリア王国の首都になった アンティオキア(現トルコのアンタキア)もこの頃建設され、シリアの都市化が進んだのであった。
さらにギリシャから東方に憧れる学生や商人などが移住し、町はギリシャ化されたのである。 コイネー(古代ギリシャ語)が使用され、政治は アテネの民主政治を手本にして行われた。

 

ヘレニズム (ギリシャ精神・文化)は, ヘブライズム(キリスト教)とともにヨーロッパ文明の源流なのである。

 


 

[雑学]

 

「アレキサンダー大王の見果てぬ夢」

 

古代マケドニアの英雄王(在位BC336~BC323) アレキサンダーは、マケドニア王 フィリッポス2世の子で、 アリストテレスを家庭教師として育った。19歳で王位をつぎ、 小アジア (現在のトルコ西部の地域にあたる古代ローマの属州アジアとその一帯)の征服、 エジプトの征服、 ペルシャ帝国征服、 インドへの遠征等により、一大帝国を築いた。しかし、次のアラビア遠征を計画していたさなか、ある夜の祝宴中に突然倒れ、33歳の若さで死去してしまったのであった。
ちなみに、彼は オッドアイ (虹彩異色症=こうさいいしょくしょう、左右の目で虹彩の色が異なる、もしくは一方の瞳の虹彩の一部が変色する症状)、日本語では金目銀目とも言いう。希少かつ神秘的なイメージから、漫画やアニメなどフィクションの世界では虹彩異色症をもつ登場人物が好まれ、重要な役柄としてしばしば登場するようだ。

 

イッソスの戦い、
左がアレキサンダー、右がダレイオス3世

 

さて、このアラビア遠征の計画は、アレキサンダーの見果てぬ夢になってしまった。海軍にほぼまったく関心のなかったアレキサンダーが、「 バビロンに帰還して創設した新しい海軍は大規模なものだったようだ。分解可能な構造の艦船700隻を フェニキアキュプロスで建造させた」とする、信じがたいような記事も知られている。「東征の完結とともに次の大事業、すなわち大アラビアの征服と アラビア半島の周航遠征の準備を目指したもの」だったといわれる。その目的は、アラビア半島を征服してその両岸の交易路である ペルシア湾紅海を支配下に納め、香料交易を完全に抱え込むことであった。それはみはてぬ夢に終わったが、アラビア半島においてはすでにそれ以前から、アラビア産やインド産の香料をめぐる交易が発達していたのである。

 

アレキサンダー大王の遠征と帝国

アレキサンダー大王没後分裂した帝国の勢力図

 

「古代ギリシャの同性愛」

 

ヨーロッパで「Greek love」と言えば同性愛のこと。1970年代以降のアメリカのゲイ・ムーブメントの担い手たちにとっても、 古代ギリシャは心のよりどころ。同性愛文化のルーツを探る。

 

同性愛は エジプトローマインドマヤでも見られた。 中国では 福建などで盛んになり、日本では戦国時代以降の武士の間で広まった。 キリスト教イスラム教は厳しく禁じてきたが、近代に至るまで世界各地で連綿と続けられてきたようだ。

 

古代ギリシャ人の同性愛は、今日のものとは少し違う。彼らは思春期以降の青年だけを対象にし、熟年同士のカップルはあり得なかった。禁じられた悦楽と言うより、むしろ社会的義務としての「少年愛」と言った方がいいかもしれない。
ギリシャ語の「鶏姦」つまり paiderastia(英語でpederasty)はpais(boy)とeran(to love)からきている。

 

ギリシャにおける同性愛は、成人男性と思春期の若者という特定の世代間に生ずる期間限定の愛であった。 彼らは結婚し子供をもうけなかったわけではない。でもギリシャ人男性にとって女房は単なる「子供の母親」もしくは「家事の専門家」。彼の愛の対象はあくまでも思春期の青年だった。
結婚式の夜、 スパルタの花嫁は暗い部屋で男装して待つ習慣があったそうだが、それは彼女たちの夫が ホモセクシュアルから ヘテロセクシュアルへ移行するのを助けるためではなかったかといわれている。
青年は成人男性から求愛を受け、略奪されるのだが、それは名誉なことであって、誰からも声がかからないことは大変な恥であった。求愛をしてきた成人男性のうちの一人を愛人として選ぶことから大人への旅立ちが始まる。この奇妙な愛人生活は今度は彼が求愛し、ふさわしい若者の愛を獲得する立場になるまで続けられた。

 

成人男性と若者は、 ポリスの中心にあるジム(gymnasium)で、一緒にトレーニングを行って日々の大半を過ごした。
Gymnasiumはgymnos (ギリシャ語の「裸体の」)から。男性達は裸で汗を流したようだが、これが愛情を育むきっかけになったようだ。男性のヌードはギリシャでは当たり前。彼らは男性のヌードこそ他の野蛮な文化とギリシャ文化を区別する根本的な違いと考えていた。ジムのみならずオリンピアの競技大会などでも裸だったことはよく知られている。 そういえば、ギリシャ彫像には裸の青年像が多いいこともうなずける。
ジムは家庭生活を離れた自由な男としての生き方を教える格好の場であった。一人前の大人として、兵士として、ポリスの成員としての自覚を促す教育の場でもあった。 プラトンがスパルタ軍に社会の理想を見いだした理由もここにあったである。
スパルタ軍はギリシャ世界でもっとも勇敢で強力な軍隊であった。スパルタでは、 アテネ以上に緻密な軍隊教育が行われていたようだ。日々のトレーニングはもちろん、それ以上に肉体を通した兵士間の強い結びつきがあった。彼らはいくら危険な事態に陥っても、自分の恋人を守るために決して持ち場を離れなかったとか。密集部隊戦法ではこれは非常に重要な要素なのだ。

 

上記の話で、今までよく理解できなかった、 シェークスピアの「 ベニスの商人」に出て来るアントニオとバサーニオの「愛」を基調とした親友関係の意味がわかった。

 


 

ローマの支配

 

セレウコス朝シリアの勢力は、 アンティオコス4世以降は次第に衰え、紀元前63年、共和制末期のローマ軍に滅ぼされて ローマ帝国属州となったのであった。 シリアの首都は、 アンティオキア (現トルコのアンタキア)に置かれた。

 

さて、当時 西アジアを制覇していたのが アルケサス朝ペルシャ (パルティア王国)だ。ローマ帝国にとって、 シリア州はこのパルティアに対する防衛拠点として、極めて重要な意味を持っていた。シリアの諸都市は、ローマの強大な軍事と政治機構に支えられ、「 ローマの平和」のもと穏やかな時代が続いていた。

 

また、ローマ帝政のシリアでは、土着宗教の聖地は保護され、 バールベックバンビュケなどには壮大な神殿が建設された。 

 

生活が安定し経済力が高まると、人々はぜいたく品を求めるようになる。そのため、 中国インドなどとの東西貿易は更に活気を帯びるようになった。当時、東西をつなぐ交易路であった シルクロードの隊商都市は、これとともに大いに栄えるようになったのである。シリア砂漠のオアシス都市であり、ローマの属州として勢力を伸ばしていた パルミラもそのひとつだ。

 

この町は、貴族商人が支配する隊商の拠点だった。AD200年後半頃には貴族の セプティミウス・オダエナトゥスが支配権を握り、軍事力を蓄え、ローマから東方の防衛を任されたのであった。 オダエナトゥスの死後はその妻 ゼノビアが一時期女王となり、ローマからの独立を宣言したが、AD273年に再びローマの アウレリアヌス帝に滅ぼされてしう。今日残るパルミラの遺跡などを見ると、当時の経済力は明らだ。

 

この頃から、アラブ系(もとアラビア半島に住み、後に中東地域に広く進出した人々)のシリア人住民が、次第に力をつけつつあったことがうかがえる。

 

ヘレニズム以来、 アカバ湾の隊商都市 ペトラに王国を築いた ナバテア人などもそうであった。

 

シリア州を防衛拠点としてアルケサス朝ペルシャ(パルティア王国)に対峙するローマ帝国(赤色)

 


 

[雑学]

 

「イエス・キリストの誕生とローマ」

 

救世主(メシア)が待ち望まれる中、 ユダヤ教の改革者として現れたのが イエス・キリストだ。 キリスト教では色々定義されているが、歴史的に見ればあくまでイエス自身はユダヤ教の改革者であったと考えられている。しかし神の愛を説いた彼は、 ユダヤ人の指導者にも民衆にもあまり理解されず、処刑されてしまう。

 

 さて、 ローマから派遣されてきた 総督に対し、AD66年狂信的なユダヤ教徒である 熱心党 (ゼーロータイ)と呼ばれる集団が反乱を起こす。が、暴君として有名なローマ皇帝 ネロの派遣した軍に鎮圧された。その後は、ローマの厳しい支配は続くものの、ローマ皇帝 ハドリアヌス (在位AD117~AD138年)は、 エルサレムを再建させた。ところが、街を再建してもらったところまでは良かったが、ハドリアヌスをたたえさせられ、ユダヤ教の重要儀式である「 割礼」という儀式が禁止されてしまったのだ。
割礼とは、男性器や女性器の一部の皮を切り取る儀式で、ユダヤ教では生後8日目の男の幼子に行われていた。それが禁止されたことでAD132年に大反乱が発生する。しかし、AD135年には鎮圧され、ユダヤ人達はエルサレムから追放され、入ったら処刑にされた。さらに、 属州ユダヤの名前は属州シリア・パレスティナに変更されてしまったのである。こうして世界各地に離散していく事になりる。これを、 ディアスポラと言う。

 

その後もローマとユダヤ教の対立は続き、特にキリスト教がローマの国教となってから、ユダヤ教は弾圧された。ユダヤ人達はその後、 バビロニアや引き続き パレスティナ地域、それから スペインなどのヨーロッパへと移り住んだ。 メソポタミアでは イスラム教成立後もユダヤ教徒・ユダヤ人は税金(人頭税)さえ払えば安全でしたが、ヨーロッパではそれこそ ヒトラーの大虐殺まで、延々とユダヤ教とユダヤ人への粛清が続くのであった。

 

「《西暦》のルーツ」

 

「21世紀は2001年から始まる」。日本では常識になっているが、世界的には必ずしもそうではないようだ。 イタリアオランダフランス韓国などの国民的常識は「2000年から」だそうで、 オーストラリアは2000年のシドニーオリンピックを「今世紀最初のオリンピック」とアピールしていた。同じような「新世紀論争」は百年前にもあり、 ドイツの皇帝 ウィルヘルム二世 は「1900年が20世紀の始まり」と宣言し、1901年説の 大英帝国と激しく対立したそうだ。 公式には グリニッジ天文台が「21世紀と新ミレニアムは2001年1月1日から」と発表しているので、一応の決着はついているのだが、「西暦」という観念の不安定さを物語っている。

 

「西暦(キリスト紀元)」が、 イエスの生誕に基づくことはよく知られているが、この「西暦」が、現在のような形で使用されるようになったのはいつ頃からだろうか。 『聖書VS.世界史』(岡崎勝世著)によれば、キリスト紀元の発案者は、6世紀の ローマの修道士 ディオニシウスで、「主の体現より(ab incarnatione Domini)」ということばで表したのが始まりだ。この言葉は、現在のA.D.(anno Domini)のもとになっている。この年号は カール大帝によって一般的に使用され、10世紀末には 西ヨーロッパで定着したと言われている。しかし、この時代には、「キリスト前(B.C.)」の年号はなかったのだ。

 

では、B.C.の使用はいつから始まるのだろうか?マイヤーの百科事典によると、 パリ大学の神学教授であったD.ペタヴィウスが「17世紀に創始し18世紀に一般に使用されるようになった」ということだ。しかし、今日的な意味での「西暦」を使用した最初の人物は ヴォルテールであろう。彼は「通俗紀元」ということばを用い、「キリスト」や「主」という言葉をはずして、歴史から宗教的な意味を剥奪して年号表記の「世俗化」をはかったのだ。

 

この記事、「大シリアの歴史」では、古代(西暦前500年頃以前)を紀元前、西暦前500年頃以降キリスト誕生までをBC、それ以降をADと表している。

 

「絶世の美女、クレオパトラの鼻の真実」

 

クレオパトラは、 エジプトの女王であるが、実は ギリシア人なのだ。彼女の死によって幕を閉じる プトレマイオス朝エジプトというのは、 アレキサンダー大王の部下が開いた王朝だから、ギリシア人の征服王朝なのである。クレオパトラの本当の顔は、謎に包まれているが、どうしても、映画の エリザベス・テーラーのイメージが強い。

 

ここで、ひとつ絶世の美女クレオパトラの魅力の真実に迫ってみたいと思う。 カエサル (シーザー)、 アントニウスの2人のローマ将軍を相次いで恋の虜にしたクレオパトラの美貌は確かに並々ならぬものがあったのだろうが、美貌だけではなく、プラスアルファの魅力があったのはまちがいない。 プルタルコスが書いた歴史書『英雄伝』には「彼女(クレオパトラ)の美しさは並外れたものではなく、見る人に衝撃を与えるというほどでもなかった」と書かれている。では、彼女の魅力は一体何だったのか?

 

「自分の王朝を守りたい」という一念で、自分を守ってくれる強い人=カエサル(シーザー)&アントニウスに近づき庇護を求めたクレオパトラの魅力、それは幅広い教養からくる頭のよさと、プルタルコスが書いているように「楽器を操るように、どの国の言語でも好きなようにその舌を変化させることができる」。といわれるように語学力の天才であったといわれている。だから、カエサル(シーザー)やアントニウスとラテン語で自由に話ができた話し上手だったことも彼女の魅力だったのであろう。

 

フランスの哲学者 ブレーズ・パスカルの言った「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界は変わっていただろう」という言葉は有名だが、では、クレオパトラの鼻は本当に高かったのだろうか?

 

当時の人物(顔)を再現した彫刻は、その信憑性が高いといわれる。
クレオパトラの彫刻は グレコ・ローマン博物館 (エジプト・アレキサンドリア)に展示されている。しかし、その彫刻(左)は鼻がかけていて推測できない。この彫刻から判断する限り絶世の美人とはいえないように感じるが、美は相対的なものなので参考にはならないかもしれない。「過去に遡るほど美は当時の風習を生かした人が美人とされる傾向がある」とも云われているから、これに該当している可能性もある。映画でエリザベス・テーラーが扮するクレオパトラと並べて掲載する。

 

エリザベス・テーラーが扮するクレオパトラ 

 

クレオパトラ7世フィロパトル (BC69年-BC30年)

グレコ・ローマン博物館 (エジプト・アレキサンドリア)

 

次の「クレオパトラ7世頭部」は。生前(BC40年頃)に作られた今も残る数少ないものの一つで、大理石で作られている。
ヘレニズム様式の彫刻で、若々しい表情だ。石像の多くが東ベルリン側にあったため、1970年代に西ベルリン側が購入したものだそう。今は 旧博物館 (ベルリン)の一角で、もともと館が所蔵していた古代ローマの武将カエサル(シーザー)の彫刻と対になっていまする。
歴史では恋人同士だった2人が、 ドイツの統一でまた一緒になれた、と来館者の人気を集めているそうだ。

 

クレオパトラ7世頭部像
旧博物館(ベルリン)

 

「神秘的なナバテア人」

 

神秘的な ペトラを建設した ナバテア人。これほどの栄華を極めた彼らナバテア人でさえ今から2千年以上昔に、その3000人以上もの人々が居たにもかかわらず、西暦364年の大震災以来あまりの壊滅的な打撃からか復興を断念し、その地を捨ててどこかへ移動したようだが、不思議な事に誰からも全く消息を絶ったまま歴史からも完全に消滅してしまったのである。この事実も“神秘”としか言い様がない。

 


 

ビザンチン帝国時代

 

AD226年、 パルティア王国に変わって 西アジアの覇者として君臨したのが、 ササン朝ペルシャだ。一方、 シリアを支配していた 口ーマ帝国は、AD96年から180年まで、5人の皇帝が支配した「 口ーマの平和」以降、軍人皇帝時代に入り混乱期 を迎える。AD395年口ーマ帝国は二つに分裂し、 東口ーマ帝国(ビザンチン帝 国)と 西口ーマ帝国に分けられる。

 

同年、シリアはビザンチン帝国の支配下に入る。ビザンチン帝国は、シリアを 7つの行政区に分け、各地区に知事を置いて治安を維持した。一般的にビザンチンの政策は、厳しい税の取立てと ギリシャ正教会の強制に代表されるが、 シリアの経済、文化は、それにもかかわらずかなり繁栄したのであった。

 

農業、織物、染色などの手工業、地中海貿易などが経済の基盤となって、特にシリア商人たちは主要な商品を提供して力を蓄えたのである。

 

AD500年代になると、ビザンチン帝国とササン朝ペルシャ帝国の抗争が激しく なり、シリアは繰り返し戦火に見舞われ、各地で略奪(この頃の習慣として認められた行為)が行われたのであった。AD600年代に入っても戦火は止まず、シリア住民たちはビザンチン帝国に対し、ますます不満を募らせるようになった。

 

ビザンチン帝国とササン朝ベルシャの勢力図

 

[イスラム時代~中世]

 

アラブの征服

 

さて、AD600年代に入ると、 西アジアは新しい時代を迎える。 アラビア半島で生まれた イスラム教が、 シリアメソポタミアエジプトに広がり、西アジアの新たな統一が始まるのだ。

 

AD500年代以降、 ササン朝ペルシャビザンチン帝国との抗争が激しくなると、 イラン方面からシリアに至る東西交通路は次第に衰えてきた。それに代わって、 インド洋から 紅海、エジプトを経て パレスチナを通り、 地中海へいたる交易路が利用されるようになった。この交易路は、アラビア半島南端の イエメンとシリアを結んでいて、生活物資とともにアラビア半島南部や インドの香料や革製品、シリアの刀剣、織物、 中国の絹、 アフリカの砂金、象牙などが運ばれた。その結果、アラビア半島西海岸は急激に発展し、 メッカメディナといった貿易の中継となる町が栄えるようになったのである。メッカやメディナといえば、いうまでもなくイスラム教の祖 ムハンマド(モハメッド)を育んだ町だ。

 

ムハマンドが開いたイスラム教は、宗教上のみならず、政治的、社会的な改革にもつながるものであった。ムハンマドはAD630年にメッカを占領し、約10年の間に全アラビア半島を統一した。

 

アラブ人がシリアへ進出したのはAD634年からで、全土の征服は638年頃に完了した。わずか4年たらずでイスラム教が急速に広がったのには理由がある。アラブ人は、 キリスト教徒ユダヤ教徒に対して比較的寛大で、 ジズヤを支払えば宗教には干渉しなかった。更にイスラム教に改宗すれば貢税は免除した。そうでなくても旧支配国よりも税の負担を軽くしたので、むしろアラブ人には協力的で、改宗するものが多かったという。これはシリアのみならず、 イスラム帝国全土でもそうであった。

 


 

[雑学]

 

「ムハンマド現れる」

 

ササン朝ペルシア東ローマ帝国の抗争が激化すると、昔からの シルクロードや、 アラビア半島東部を使った「海の道」と呼ばれる、両東西交易路は危険で衰退し、代わってアラビア半島西部と海を組み合わせた交易路が発達するようになる。その交易路の中継都市として、大きく発展したアラビア半島西部の都市が メッカである。メッカにはまた、遊牧民の信仰の対象である カーバの神殿もあり、多くの人を集めることになる。

 

この都市をAD400年以降支配していたのが、 クライシュという部族だ。クライシュ族は更に、カーバ神殿周辺に住む身分の高い部族、その周辺の山麓に住む身分の低い部族ら12の部族に分かれる。

 

AD540年頃、このクライシュ12部族の名門 ハーシム家に生まれたのが、 ムハンマド (マホメット)である。ムハンマドは、もちろん後のイスラム教の基礎を作り上げた預言者だ。6歳で孤児となった彼は、祖父と叔父に養育され、隊商貿易に従事。そんな中、彼は誠実な人柄だったらしく大富豪で未亡人の ハディージャに仕事を任され、これが縁で結婚することになる。当時ムハンマドは25歳、ハディーシャは40歳であった。二人の間には、三男二女が生まれたとか(ただし男子はいずれも早世)。そして幸せ一杯のムハンマドは、メッカ近郊の山中で瞑想をするのが趣味で、よく通っていた。 ところが、AD610年頃、彼は天使を通じて唯一神 アラーの啓示を受けることになる。驚いた彼が妻ハディーシャに相談すると、励まされ預言者として活動することになったという。

 


 

シリアの黄金時代ウマイヤ朝

 

ムハンマドの死後、その後継者であり政治、軍事上の代表者である「 カリフ (イスラム国家の指導者、最高権威者の称号)」が登場する。 カリフたちは、アラブ人諸部族を集結させ、ビザンチンとササン朝両帝国の衰えに乗じて大規模な征服に乗り出した。まず、ビザンチン帝国から、 シリアパレスチナエジプトを奪い、AD651年にはササン朝ペルシャを滅ぼしてしまった。

 

しかし、 アラブ人の内部では次第に富の配分への不満が募り、指導者たちの対立が激しくなっていった。その頃、シリア 総督を務めていた ムアーウィヤが、AD661年、第4代カリフの アリーを倒して自らがカリフとなり、 ダマスカスを都とし て ウマイヤ朝を開いたのであった。そしてそれまで選挙制であったカリフを世襲制としたのである。

 

ウマイヤ朝は征服を再開し、 中央アジア西北インドまで軍を進め、 コンスタンチノープル〔現トルコのイスタンブール〕を攻撃してビザンチン帝国を脅かした。さらに アフリカ北部イベリア半島に上陸して、アジアからアフリカ、ヨーロッパにまたがるアラブ大帝国を形成したのであった。ウマイヤ朝は、まさにシリアの黄金時代といえる。

 

当時シリア内では キリスト教の勢力が強かったが、ムアーウィアは地震で倒壊した キリスト教会を再建するなどして、シリア人の心をうまくつかみ、シリアにおける権力を確実なものにしたのだった。シリアを直轄領とし、灌漑を整備して農業を振興させ、地中海貿易にも力を入れたのである。

 

5代目 アブド・アル・マリクと4人の息子の治世の間に全盛期を迎え、 ギリシャ語ペルシャ語に代わって アラビア語が公用語となった。ササン朝ペルシャやビザンチン帝国に習い、首都ダマスカスと地方都市を馬やラクダの中継で結ぶ 駅伝制を取り入れ、地方での重要な出来事をカリフに連絡させた。

 

またこの頃、世界最古の モスク「ウマイヤ家のモスク(ウマイヤド・モスク)」 が建てられた。もとはキリスト教会だったが、シリア、 イランギリシャの職人の手により多彩な モザイクが施され、モスクとして再建したものである。宮廷では、カリフたちが豪奢な生活を送り、 ハーレム制度宦官組織なども現れた。

 

世界最古のモスク、

ダマスカスのウマイヤド・モスク

 

ダマスカスは現在人口約170万人の大都市だが、もともと アラビア人(アラビア半島に住む人)はあまり農業に興味を持たず、農村的 オアシスより商業中心のオアシスに集中した。この町は、当時からかなり都市化が進んでいたようである。

 

ウマイヤ朝版図

 


 

[雑学]

 

「ハレム(ハーレム)の話」

 

優雅に湯浴みする女性、立ち上る芳香、官能的な踊り。でも、これは19世紀の西欧で作られたイメージだ。実際の ハーレムでは血なまぐさい陰謀が飛び交い、数知れぬ悲劇が生まれた。

 

ハーレムとは、「禁じられた場所」という意味で、 イスラム社会における女性の居室のことである。そこにいる女性の家族や親族以外の男性の立ち入りが禁じられていたことからその名がつけられたのだ。

 

ハーレムは、 イスラム教の説く、性的倫理の逸脱を未然に保護するためには男女は節理ある隔離を行わなければならないとの思想を直接の背景としている。 イスラム帝国の首長である カリフの権威が絶頂に達した アッバース朝では、『 千夜一夜物語』に半ば伝説化して語られたような非常に大規模なハーレムが営まれていたようだ。その頃には、ハーレムはカリフや スルタン後宮として機能し、「 オダリスク」と呼ばれた美女達は、世界各地の奴隷市場から集められたのであった。

 

「宦官の話」

 

宦官とは、 去勢された官吏のことを言う。「宦」は「宀」と「臣」とに従う会意文字で、その原義は「神に仕える奴隷」であったが、時代が下がるにつれて王の宮廟に仕えるものの意味となり、禁中(天子が住む宮中)では去勢された者を用いたため、彼らを「宦官」と呼ぶようになったのである。

 


 

アッパース朝時代

 

ウマイヤ朝では、 アラビア人中心の政権を敷いて改宗者を差別していたこともあり、住民の不満が各地に広がっていたし、特に ササン朝ペルシャ以来の イラン人は、ウマイヤ朝に強い反感を抱いていた。これに乗じて、 ムハンマドの叔父 アッパースの子孫たちが、イラン人の協力のもとAD750年にウマイヤ朝を倒して アッパース朝を開き、 バグダッド〔現イラク〕を都と定めた。

 

ウマイヤ朝は、翌年 ダマスカスから追い出され、その一族は イベリア半島に移って、 後ウマイヤ朝〔AD756年~AD1031年〕を建てた。その結果、帝国は東西に分裂することになったのである。アラビア人中心の支配にあったウマイヤ朝は「アラブ帝国」、アッパース朝は「イスラム帝国」と区別されている。

 

アッパース朝の最盛期は、 ハルン・アル・ラシッドの時代だ。この頃 カリフは「神の代理者」として権威を高め、ササン朝を受け継いだ官僚制度を敷いてイラン人を多く登用し、中央主権体制を固めたのであった。ウマイヤ朝時代よりももっとヨーロッパ〔 ビザンチン〕の影響を離れ、 西アジア本来の帝国に復帰したといえる。対外貿易も活発で、特に 北アフリカ一帯の東西貿易により利益を上げていた。

 

また、この時代は、 イスラム独自の文化が開花した。支配下に入った諸地域の文化を融合させて、特に ギリシャの文化を広く取り入れ、 イスラム教のもとで発展させたのである。

 

アラビア哲学、天文学、商業算術、美術、建築、文学も発達し、「 千夜一夜物語」(アラビアンナイト)もこの頃に出来あがった。特にギリシャの学問が アラビア語に訳されてAD1000年以降の ヨーロッパに伝えられたことは重要だ。

 

帝国の首都がバグダッドに移ってから、 シリアは単なる一地方に過ぎない存在になってしまった。しかし、ダマスカスはさらに発展し、文化面でもイスラム文明の発達に大いに貢献したのであった。特にシリア人は過去1000年の間に ギリシャ語に親しんでいたため、ギリシャ語からアラビア語への翻訳作業を多く任されていたという。

 

アッパース朝版図

 


 

[雑学]

 

「千夜一夜(アラビアン・ナイト)の話」

 

AD950年頃 アラビア語で記された、世界最大の 説話集といわれている。

 

“妃に裏切られたため、すべての女性を憎むようになった ササン朝ペルシアのシャフリヤール王に、大臣の娘シャハラザードが妹のドンヤザードの助力を得て、千一夜にわたって様々な楽しい話を聞かせた“といわれている。それらの物語を集めたのが『 千夜一夜物語』なのだ。
なぜ「千一夜」であるかについては、2つの理由が考えられている。
第一は、千は無数という意味を表し、無数に一を加えると数知れない夜を表すというのもの。
第二はこの物語の編者らは偶数を凶数と見て「千一」にしたという説である。

 

この説話集には、もっとも有名な3つの物語(1.アラジンと不思議な魔法のランプ、2.アリババと40人の盗賊、3.シンドバードの冒険)を初めとして、 アラビアペルシアトルコインドなど各地の説話が入り混じっているのである。その内容は、ロマンスあり、メルヘンあり、旅行談あり。また登場する人物も、王様(アッバース朝第5代カリフ、 ハールーン=アッラシードは主役格の人物としてしばしば登場する)から乞食にいたるまで実に多種多様だ。

 

「アラジンのふるさと」

 

千夜一夜物語』の中の、「アラジンと不思議な魔法のランプ」の主人公、アラジン少年はいったいどこの国の仕立屋の息子として描かれているかご存じだろうか。たいていは、 トルコインドアフリカぐらいを想像されるのではないだろうか。
実はアラジンは 中国の町、 泉州の貧しい少年として登場してくる。彼は モロッコの魔法使いを退治して、ランプの魔神と指輪に助けられて莫大な富を手に入れる。 泉州は 台湾のほぼ対岸、当時ジャンフーという名前で呼ばれた港湾都市であった。 代、 代にわたって 市舶司が置かれ、 江南の玄関口の役割を果たしていた。大勢のイスラム商人たちが出入りし、一種の外国人居留区が形成されていたようである。アラブ系を連想させるアラジンという名の商人の一人や二人が実際に住んでいたとしてもなんら不思議ではない。

 

ペルシャの大臣の娘、シェラザードが、王様(カリフ)に連日連夜聞かせ続けた物語。シンドバットは インド人だし、アリババは アラブ人だから、なんとインターナショナルな物語ではないだろうか。当時の イスラム世界の広がりを、これほど雄弁に物語る資料はない。

 

「カリフとスルタンの違い」

 

カリフは、預言者 ムハンマド亡き後の イスラム共同体イスラム国家の指導者、最高権威者の称号である。 カリフ権=宗教権威を表わす。

 

スルターンは、 イスラム世界における君主の称号のひとつだ。カリフからスルターンの称号を授与され、ちょうど 西ヨーロッパにおける 教皇に対する 皇帝のように用いられる。カリフを教皇とすると、スルターンは皇帝という関係になり、スルタン権=世俗権力を表している。

 


 

十字軍の到来

 

AD800年代半ばになると、 アッパース朝の勢力は衰え、諸王朝の興亡が繰り返された。 

 

エジプトで独立した トールン朝 (AD868年~AD905年)がパレスチナから中部シリアを支配し、AD900年代前半には中部シリアはトルコ系の イフシード朝に支配された。北シリア方面は ハムダーン朝(AD905年~AD1004年)の支配下に入り、シリア南部と沿岸地方には、 チュニジアで興った ファーティマ朝 (AD909年~AD1171年)が侵入してきた。その後北部シリアは混乱期に入り、 ビザンチン帝国がしばしば押し寄せてきたが、この後 シリアはエジプトに本拠地を置く勢力(ファーティマ朝)に支配されることが多くなったのである。

 

AD1000年代に入ると ヨーロッパでは 十字軍運動が起こる。運動はAD1095年から約200年にわたって続いた。 西アジアでは、AD900年代の後半に 中央アジアで興ったトルコ系 セルジューク・トルコが勢力をのばし、セルジューク帝国を建設したのである。元来、 キリスト教では聖地への 巡礼は最大の徳とされ、巡礼者があとを絶たなかったが、 トルコ人キリスト教徒に対する迫害がしきりに行われるようになり、これが、十字軍運動の大きな引き金となったのである。

 

シリアはセルジューク帝国の支配を受けていたが、AD1098年、十字軍はシリア北部の アンティオキア (現トルコ)を攻め、翌年 エルサレムを占領し、その後北シリアから アカバ湾にいたる十字軍国家を建設したのであった。

 

十字軍のシリアは、戦争の時代ではなかったが、ヨーロッパへの交易が盛んに行われ、羅針盤をはじめ、西アジアの産物や技術がヨーロッパに伝わった時代であった。

 

十字軍侵略時(紀元1100年代)の各王朝版図

 


 

[雑学]

 

「アラブから得た計り知れない影響」

 

今、私たちの暮らしは欧米化された・・・・などといわれるが、実は大きな間違いだ!そのルーツをたどると多くは アッバース朝時代にたどり着くといっても言いすぎではない。

 

たとえば、一日の仕事を終えたら後は他人に左右されない自分の自由な時間、という観念。 これは、最初はアッバース朝時代の イラクだったのである。 他にも、アパートの賃貸契約もこの時代に成立した。

 

また、アッバース朝と 後ウマイヤ朝に、 から製紙法が伝来したが、これが西暦1189年に フランスに伝わる。 また、数学もそうだ。 古代ギリシャの数学を受け継いでいたのは、実は イスラム世界であった。 ヨーロッパでは大混乱で失われてしまったのだが、イスラムで生きていた。 さらに、これに インド数学、つまり(0、1、2、3・・・)といった数字にゼロという画期的な数学を取り入れたのだ。 これがヨーロッパに伝わり、 アラビア数字として使用されているのはご存知とおり。 さらに、sinθ、cosθといった三角関数と代数の大半はイスラムの学者が大成させたし、代数では フワー・リズミー (西暦780年~西暦850年)というアッバース朝の学者が有名である。

 

まだまだある。 国際交易が盛んだったイスラム世界では、小切手というものが発行され、これも今では当たり前になっている。 最初の例は8世紀の バグダッドだったという。 そもそも完全な 貨幣経済を実現したのがアッバース朝なのだ。 国内すべての売買・税金などが貨幣で納められていた。 また、考えてみれば 官僚制を基礎に、兵士は給料を払って雇う、ということもイスラムが最初だった。 近代国家システムはすでにここに成立していたのである。

 

再度理学分野では・・・観測・実験を重視し、そこから理論を導くというのは科学の鉄則、これも、 イブン・アルハイサム (西暦963年~西暦1038年)がスタートさせたこと。彼は ファーティマ朝時代の学者で カイロ在住、 ラテン名をアルハーゼンといった。 ちなみに彼は、光の屈折とか凸レンズ・凹レンズの研究をしていた。彼のおかげで、後のヨーロッパで ロジャー・ベーコンガリレオが活躍することになる。

 

それから、 アリストテレスのごとく多分野で研究を行ったのが イブン・スィーナー (西暦980年~西暦1037年)だ。 基本的には「医学全集」全5巻が最大の功績で、他にも動物学や気象学を研究し、 中世ヨーロッパでは教科書のごとく扱われていた。 また、医学といえば外科の技術の進歩にも注目だ。 それから、数学もそうであったが ギリシャ哲学もイスラム圏で アラビア語に翻訳されていたからこそ、今に伝わっているのである。

 

ウマイヤ朝ジルヤーブが大成した食事マナーは今の基礎なのだそうだ。 レストランで最初にスープがでて、次に肉料理と野菜、その次にデザート、そして最後に食後のコーヒーという順番がそれだ。 そのコーヒーはイスラム圏では西暦700年代から飲まれていたが、ヨーロッパで飲まれるのは西暦1600年代以降のことである。 最後に、アラビア語からヨーロッパの言葉になったものに、アルコール、アルコリズム(算術)、ソーダ、シロップ、マガジン(雑誌)、アルカリ、シュガーなどなどがある。

 


 

アイユーブ朝下での繁栄

 

十字軍侵略に対して反撃にでたのが、 ファーティマ朝の宰相を務めていた サラディン(サラーフ・アッディーン/在位AD1169年またはAD1171年-AD1193年)であった。彼はAD1187年には エルサレムを奪回し、 アイユーブ朝 (AD1169年~AD1250年)の君主となる。AD1192年には十字軍との間に和平条約が結ばれ、 キリスト教徒のエルサレム 巡礼が保障された。

 

アイユーブ朝時代は、 シリアが再び ウマイヤ朝以来の繁栄を取り戻した時期でもあったのだ。シリア各地は、同朝の諸侯たちによって分割統治されていおり、シリアからは、砂糖やオリーブをはじめとする農産物、ガラスや貴金属品、織物、家具類などが エジプトヨーロッパに輸出され、地中海沿岸や アレッポダマスカスといった都市がおおいに栄えたのであった。これらの都市には、 モスクマドラサハンマーム、病院等の施設が建てられ、東方の地(現在のイラクやイラン)から学者や職人が移住し、 イスラム世界の文化の中心地となったのだ。

 

アイユーブ朝と他王朝版図

アレッポのグレート・モスク

 


 

[雑学]

 

「イスラムの英雄・サラディン」

 

サラディン(AD1138年~AD1193年)は、現 イラクティクリートサダム・フセインが捕まったところ)の クルド族出身で少年時代を バールベックで、その後青年時代まで ダマスカスで過ごしたが、長じて アレッポの君主 ヌールッディーンに仕え、 シリア軍を率いて エジプト遠征に赴く。一時 ファーティマ朝エジプト宰相に就任するが、その後 アイユーブ朝を創設し、AD1171年にはファーティマ朝を完全に滅ぼしてしまう。
AD1176年にはシリア内陸部の統合に成功するが、当時シリアには ヨーロッパからの侵略者である 十字軍が存在し、サラディンによるシリア統一を阻んでいた。 彼はAD1187年の「 ヒッティーンの戦い」で十字軍の主力部隊を壊滅させ、聖都 エルサレムを見事に奪還した。
かって十字軍は、エルサレムを攻略した時 イスラム教徒を虐殺したが、サラディンは キリスト教徒を迫害せず、捕虜も送還した。無用な殺戮は一切行われず、ヨーロッパからも真の騎士であると絶賛をうけたのだ。
その後、第3次十字軍が再度聖地の解放をめざして侵攻、 イングランドリチャード1世 (獅子心王)と フランスフィリップ2世 (尊厳王)の率いる軍勢が、AD1191年、 アッコン (当時の エルサレム王国の首都)の攻略に成功する。しかしサラディンの巧妙な戦法により、リチャードは戦の継続を諦め、AD1192年に休戦条約が結ばれたのだった。
結局、十字軍はアッコンや スールなどの 地中海沿岸の 城塞都市を確保するが、シリアにおける支配領域は20年前に比べれば大幅に縮小してしまったのである。
この時のサラディンとリチャードとの勇猛な戦いぶりはサラディンの騎士道精神とともに、後世に長く語り継がれることになったのである。

 

サラディンについてのより詳細な解説は→こちらを参照。

 

ダマスカスのサラディン像

 

「獅子心王・リチャード1世」

 

「ライオンハート(獅子心王)」と呼ばれたリチャード1世(AD1157年~1199年)は、AD1189年 イングランド王になるとすぐに 第3回十字軍に参加する。

 

AD1191年、要港 アッコンを陥落させた彼は、賠償金の支払いが遅いという理由で、降伏した敵兵2千7百名の首をはねた。これを知った イスラム軍の司令官 サラディンは声をあげて泣いたという。

 

サラディンと和を結んだリチャードは、聖地 エルサレムへの巡礼のための自由な通行権を得て、AD1192年帰国の途についたが、帰途 ウィーン近くで レオポルト5世 (オーストリア公) の捕虜となり ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝・ドイツ皇帝)に引き渡され幽閉されてしう。莫大な身代金を払って釈放され(AD1194年)やっと帰国したのであった。帰国後、弟の ジョンを逐って王位を取り戻し、国内の反乱を鎮圧した後、 フランスに出兵し フィリップ2世との戦いの最中、流れ矢にあたって戦死したのであった。

 

リチャードが幽閉されていた城は、美しい ドナウ川の中でも、特に風光明媚な場所といわれる「 ヴァツハウ渓谷」で最もロマンチックな町、 デュルンシュタインにある クエリンガー城 (デュルンシュタイン城址)だといわれている。

 

[近代への道]

 

モンゴル人の侵入

 

西暦1200年代の中頃、 アイユーブ朝に代わって シリアを支配したのが エジプトで興った マムルーク朝 (西暦1250年~西暦1517年)だ。この時期のシリアは、 モンゴルティムールの侵入、諸侯間の闘争、疫病の流行などで混乱を極め、経済力も衰退して停滞の時期に入っていった。

 

衰退の原因は、モンゴル人の侵入に始まる。 チンギス・カンの孫 フレグが率いるモンゴル軍は、西暦1258年に イラクに入り バグダッドを攻略、 イランを中心とした イル・ハン国を建てた。西暦1259年にはシリアに進んでアイユーブ朝を倒し、 アレッポダマスカスを占領し、 パレスチナに向かおうとしたが、マムルーク朝がこれを阻止したのであった。

 

マムルークとは アラビア語で奴隷を意味する。アイユーブ朝の トルコ人奴隷だった アイバクが軍司令官に昇進して、同朝の スルタン サーリフの死後、マムルーク朝を創設したのだ。首都は カイロにおいた。その後、イル・ハン国のモンゴル軍はシリアに対して激しい攻撃を行ったのであった。

 

約100年後、トルコ系モンゴル人のティムールが、 中央アジアサマルカンドを都として ティムール帝国を建てた。イル・ハン国を倒し、西暦1400年にはシリアに侵入したのだ。アレッポとダマスカスを破壊して住民を虐殺し、ダマスカスの学者や職人らをサマルカンドへ連れ去り移住させてしまった。

 

紀元1400年代のティムール帝国版図

 


 

[雑学]

 

「暗殺者集団の誕生」

 

つい最近まで相次いだ イスラム過激派による自爆テロが、世界を震撼させたが、実はイスラム中世期にも テロで恐れられた集団があった。それが、シーア派過激派の ニザール派だ。 シーア派のためならば、 イスラムキリスト教 (十字軍)の、多くの要人を暗殺しまくっていた。 イスマーイール派ハサン・サッバーフ(?~AD1124年)が、それを指導していた。イラン山中に拠点を構え、暗殺者をどんどん送り込んだのだ。

 

暗殺・・・例えば、 セルジューク朝の宰相 ニザーム=アル=ムルク。名君である第3代スルタン・ マリク=シャーと二人三脚でセルジューク朝の最盛期をつくった人物であるが、AD1092年、彼は バグダードに帰る途中でニザール派によって暗殺されてしまった。そして、彼とマリク・シャーの死後、セルジューク朝は分裂してしまったのだ。

 

暗殺はセルジューク朝トルコを中心に行われたほか、十字軍に対しても行われ「 アサシン」として恐れられた。語源については 暗殺教団を参照。

 


 

オスマン・トルコの支配

 

この頃, オスマン・トルコ小アジアで勢力を伸ばしていた。 オスマン・トルコは, モンゴル軍を避け、小アジアに移住した トルコ人の一派で、AD1300年代頃から バルカン半島に進出していた。その後,AD1453年、 コンスタンチノープル (現トルコのイスタンブール)を占領して、 ビザンチン帝国を滅ぼし、 アジアアフリカヨーロッパにまたがる大帝国を築いたのであった。

 

オスマン帝国(AD1299年~西暦1922年)は、 マムルーク朝からAD1516年に シリアを奪った。シリア北部の アレッポは、オスマン帝国にとって軍事的にも通商的にも重要な拠点となったのである。

 

オスマン帝国の最盛期を築いた スレイマン1世が死ぬと、 インフレにともなう汚職や収奪などで政治は腐敗してゆく。このような中で、オスマン帝国の貴重な財源は、 エジプトをあてにしていたが、マムルーク朝の残存勢力が根強く残っていて、それもうまくいかなかった。さらに、エジプトはシリアの豊な産物を狙っていて、シリアはオスマンとエジプトの勢力の渡り廊下のような役割を果たしたのであった。 やがて、AD1800年代に入ると、オスマン帝国は支配下にあった諸民族の抵抗や 列強の干渉を受け、ますます衰えていくことになる。特に、エジプトで勢力を伸ばした ムハンマド・アリーは、シリアの地を要求して、トルコと2度にわたって戦ったのだ( シリア戦争)。しかし、列強の干渉を受け、目的は達成されなかった。その後、オスマン・トルコとエジプトは イギリスフランスの干渉を強く受けるようになったのである。

 

AD1400年代に入ると、世界は新たな時代へ進み始めていた。 コロンブスによって アメリカ大陸が発見され、 喜望峰を通る インド航路が発見されて国際貿易が活発となり、 西アジアは次第に インドとヨーロッパとの中継的地位を失っていった。 そして、シリアは暗黒の時代に深く沈みこみ、やがてくる世界戦争に巻き込まれていくのである。

 


 

[雑学]

 

「コンスタンチノーブルの陥落」

 

オスマン帝国の軍勢は、約10~12万。常備軍 イェニチェリ1万、正規騎兵7万、その他が雑多な軍勢だったようだ。そして、当然大砲を山ほど製造し運んできた。狙うはただ一点、城壁の破壊だ。

 

ところが、 ビサンツ帝国の城壁はまだ耐え続け、破壊しても破壊してもどんどん修復され、さらにオスマン海軍は西洋からの援軍に打ち破られ、援助物資搬入を許してしまう。 ・・・・が、これは、もう有名すぎて書くに及ばないが、 メフメト2世はなんと艦隊を山越えさせて、ビサンツ海軍の背後に侵入し攻撃。相次ぐ大砲による砲撃と海上からの侵攻に、ビサンツ側も疲れが出てき始め、さらに頼みにしていた本格的な西洋からの援軍もない。

 

そんな時、閉め忘れていた門からオスマン軍が侵入し大混乱になる。さらに、この頃には城壁もガタが来て、そこらじゅうに割れ目が出来てしまい、そこからも侵入されると、ついにビサンツ帝国は敗北してしまった。 陣頭指揮を執っていたビザンツ皇帝 コンスタンティヌス11世は、戦死。53日間の攻防であった。ここに、古代から続いてきた ローマ共和国ローマ帝国の伝統を受け継ぐ国は、ついに滅び去ったのである。

 

メフメト2世は、ここを イスタンブール (イスタンブル)と改称するとともに、多くの キリスト教会モスクに変え、ただし一部は キリスト教徒ユダヤ教徒用に残し(税を払えば信仰を認めた)、ここを自分の首都とするべく大改修したのであった。すっかり荒廃したこの地も、再び大繁栄を遂げるようになる。また、1465年には トプカプ宮殿という巨大な居城を作り上げ、オスマン帝国のシンボルとした。

 

塩野七生女史著の「コンスタンチノーブルの陥落」は、まさにこの劇的な史実を小説化した力作だ・・・。

 


 

[現代史と現状  第一次世界大戦~現在]

 

アラブ民族運動の波

 

AD1800年代半ば頃から、ヨーロッパ列強帝国主義の色を濃くしていき、 アジアアフリカ諸国は次々と列強の 植民地となっていったのである。そのような情勢の中、 シリア第一次世界大戦がはじまるまで、約400年にわたって オスマン帝国の支配下にとどまっていたのだった。

 

AD1914年、第一次世界大戦が勃発したが、これは、 ドイツオーストリアイタリアの「 三国同盟」と、 イギリスフランスロシアの「 三国協商」(連合国)の戦いであった。戦争が長期化すると、各列強は植民地の人、物を含めた資源を総動員しなければならなくなったのだ。イギリスはトルコ(オスマン帝国)が同盟国側に立って参戦すると、 スエズ運河を確保する必要もあったので、 エジプトを完全に 保護国とした。それは、西暦1869年に完成したスエズ運河が、東西交通の要衝となっていたからである。

 

一方、トルコ内部では、 アラブ系民族独立運動が高まっていった。特に、 メッカ太守フサイン・イブン・アリー(シャリーフ)アラブ民族主義を強く主張し、イギリスはこれを支持するなどして、アラブ民族の独立を助け( フサイン=マクマホン協定)、敵国トルコを苦しめようとした。この太守フセインとは、 イスラム教の祖 ムハンマドの血筋をひく アラブの名門 ハーシム家の当主であった。西暦1999年に死去した ヨルダン国王フセインの曽祖父にあたる。

 

その後、シャリ-フ・フセインの息子 ファイサル1世は「 アラブの反乱」を起こしたのだ。ファイサル1世は、西暦1920年、連合国側の一軍として ダマスカスに入城し、シリアと パレスチナを占領して王位についたのであった。この時イギリス陸軍省の T.E.ロレンスが、アラビア人部隊を組織して活躍したといわれているが、その様子は、映画「 アラビアのロレンス」に描かれている。

 

しかし、イギリスはこれより少し前の西暦1916年、フランス、ロシアとの協定「 サイクス・ピコ協定」をひそかに結び、アラブ地域の分割を約束していたのであった。

 

さらに、イギリスは、 ユダヤ人の経済協力を得るために、西暦1917年ユダヤ人の パレスチナ復帰運動を支持したのだ。これを「 パルフォア宣言」という。ユダヤ人にパレスチナへの入植を許し、 ユダヤ人国家建国の糸口を与えていたのである。こうしてイギリスは、アラブとユダヤ両方にいい顔をする、いわゆる二枚舌外交ならぬ三枚舌外交を展開してしまい、この相反する約束が、やがて「 パレスチナ問題」や「 中東戦争」を生む原因となっていったのである。

 

以下、現在の中東問題すなわち「パレスチナ問題」の起源とその起因となったイギリスの三枚舌外交の経緯について、さらに詳しく述べた記述を紹介する。

 


 

 

パレスチナ自治区と呼ばれているところは、ヨルダン川西岸とガザのわずかな地域のみで、パレスチナと呼ばれていた土地のほんの一部にすぎません。パレスチナ問題とは、自治区だけでなく、パレスチナの土地全体をめぐるアラブ人とユダヤ人の争いを意味しています。

 

この争いは19世紀後半から20世紀前半にかけて発生しました。この時期には西ヨーロッパで「一つの民族が一つの国家をつくる」という原則にもとづいて「国民国家」が形成されました。そして、その国家システムが東ヨーロッパやその他の地域に、広がっていった時期でもありました。

 

パレスチナ問題は、ヨーロッパでの「近代国民国家」形成過程のひずみから生じた問題と言い換えることができます。なぜなら、ヨーロッパで国民国家が形成された際に、少数民族の人々や各国に散らばって存在していたユダヤ人などが、国民国家システムからはじき出されかねない状況になってしまったためです。

 

■ヨーロッパの「近代国民国家」形成の過程ではじき出された人々

ユダヤ人は紀元前10世紀頃パレスチナで王国を建設していましたが、紀元前6世紀には王国が滅ぼされ、数百年以上かけてヨーロッパ各地に広がっていきました。ユダヤ人とは、通常、ユダヤ教徒の母親から生まれたものを意味しています。

 

中世ヨーロッパでは、ユダヤ人には農地の獲得が許されていませんでした。けれども、キリスト教で禁じられていた金融業を営むことができたため、伝統的に金融業や商業を営むものが多かったといわれています。たとえば、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に登場する高利貸しも、ユダヤ人として描かれています。

 

この各国に散らばっていたユダヤ人は、近代国家建設の過程で邪魔者にされ、ロシアでは迫害を受けたり(ポグロム)、フランスでも冤罪を被る事件(ドレ フェス事件)が発生しました。そのため、1890年代には、ユダヤ人の間に「シオニズム」と呼ばれる国家建設を模索する動きが生まれました。

 

けれども、国家建設するためには大量のユダヤ人が移住できる土地が必要です。国家建設を切望するユダヤ人たちは、紀元前に王国のあったエルサレム付近に帰還すべきと議論していました。

 

ユダヤ国家建設には、人々が暮らす土地が必要だった

当時、エルサレム付近はオスマン帝国の支配下にあり、もちろん、そこは誰も住んでいないわけではありませんでした。そのため、当初はイギリス領東アフリカ(現在のケニアおよびウガンダ)に、「仮の地」として国家建設をするという案が真剣に検討されていました。

 

ヨーロッパでユダヤ人たちがこのような議論をしている頃、エルサレム付近の人々は、オスマン帝国からアラブ人として独立を試みていました。

 

オスマン帝国は本来イスラム教にもとづいた多民族国家でした。けれども、20世紀になるとトルコ語が強要され、官職のトルコ人化がすすめられるようになり、トルコ人以外の人々に対する処遇が悪化していました。そのため、帝国内のアラブ人たちはアラブ国を設立すべく、イギリスと結託することにしたのでした。

 

第一次世界大戦前のイギリスは、ドイツと敵対関係にありました。オスマン帝国はドイツと手を組み、イギリスが支配していたスエズ運河に脅威を与え、イギリスの植民地であるインドのイスラム教徒に蜂起を促そうとしていました。

 

「敵の敵は味方」といわれますが、イギリスはドイツとオスマン帝国に対抗するために、アラブ人に戦後の独立を約束して、オスマン帝国に反乱をおこすよう促したのでした(1915年10月:フセイン=マクマホン協定)。

 

ところが、イギリスはここで悪名高い2枚舌ならぬ、3枚舌外交を行ないます。イギリスは第一次世界大戦を乗り切るために、膨大な戦費を必要としていました。そのため、ユダヤ人の豪商ロスチャイルド家から資金援助を受けられるよう、ユダヤ人に対してパレスチナに民族的郷土の建設を支持する、という約束をしたのでした。(1917年11月: バルフォア宣言)。

 

さらにイギリスは同盟国であるフランスとロシアとともに、戦後のパレスチナ地域を含む中東の分割案をも取り決めていました(1916年5月:サイクス=ピコ協定)。これは3国による秘密協定でしたが、レーニンの革命によってロシアが崩壊し、密約が暴露されたのです。

 

つまり、イギリスは一つの土地に対して、三つの異なる約束をしていたのでした。

 

イギリスの委任統治下のパレスチナで、アラブ人とユダヤ人の対立が激化

戦後、イギリスはこの三つの約束を果たすようアラブ人、ユダヤ人、フランスから求められることとなりました。反乱に勝利を収めたアラブ人に、独立 は認められませんでした。ユダヤ人に対しても、イギリスは「民族的郷土(National Home)」の建設を支持したのであって、「国家建設(Nation State)」の建設を支持したわけではないと主張しました。

 

結局、イギリスが約束を果たしたのは、同盟国フランスに対してだけでした。その結果、この地域はイギリスとフランスによって分割され、委任統治下におかれることとなりました。

 

イギリスの委任統治下におかれたパレスチナでは、当初、ヨーロッパからのユダヤ人の流入は限定的で、アラブ人とユダヤ人の共存が図られていました。しかし、1933年にドイツでヒットラーが政権に就き、大量のユダヤ人が迫害、虐殺されるようになると、パレスチナに流入するユダヤ人の数も激増し、シオニズ ム運動は一段と激しくなっていきました。

 

それにともないアラブ人とユダヤ人の対立も激化し、双方によるテロと反乱が頻発し、イギリス軍には収拾がつけられないほどになっていきました。

 

第二次世界大戦後、パレスチナ問題は国連の手に委ねられたが……

そして第二次世界大戦後、戦争で疲弊したイギリスは、設立されたばかりの国連に問題の仲裁と解決を求めました。国連はアラブとユダヤでパレスチナの土地を分割しあい、エルサレムは国際管理下におくという国連決議181号を採択しました。

 

しかし、この分割案では、ユダヤ人口が全パレスチナ人口の3分の1以下にもかかわらず、土地の約45%がユダヤ側に分配されており、しかもアラブに与えられたのは耕作不可能な土地が多いとして、アラブ側は分割案に猛反対しました。イスラエル側もまた、提示された土地は2つに分断されており、国家建設には不適切だとして、決議案に反対しました。

 

両者が歩みよることはなく、結果的に軍事的衝突に発展しました(第一次中東戦争)。アラブ側からはシリア、レバノン、トランスヨルダン、エジプト、イラクの軍が援軍として戦いに参加しました。当初、アラブ側が優勢と思われていましたが、ヨーロッパ各国は迫害されたユダヤ人に対して同情的で、武器や弾薬を アラブ側に提供しませんでした。

 

装備の不十分なアラブ側が敗北し、1948年に現在のイスラエルが建国されることとなりました。そして建国の結果、今度は70万人といわれるアラブ人が難民となり、近隣のアラブ諸国に避難しました。この難民とその子孫がパレスチナ人と呼ばれる人々です。

 

これがパレスチナ問題の起源です。アラブ側は大国の外交政策に翻弄され、アラブ人として国家建設ができなかったために、パレスチナ問題をパレスチナ人だけの問題ではなく、アラブ全体の問題としてとらえることが多いのです。そのため、この問題が中東における様々な他の問題を引き起こす鍵となっています。パレスチナ問題が「中東問題」と呼ばれると理由はそこにあります。

(文.岩永尚子・海外レポート、アラブより転載)

 


 

[協定および宣言の解説]

 

「フサイン・マクマホン協定(英国がアラブに対して結んだ協定)」

フサイン=マクマホン協定は、1915年に イギリス が、 オスマン帝国 の支配下にあったアラブ地域の独立と、 アラブ人 パレスチナ での居住を認めた協定。

[概要]

メッカの太守である フサイン・イブン・アリー とイギリスの駐エジプト高等弁務官 ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、イギリスは対 トルコ(オスマン帝国) 戦協力(アラブ反乱)を条件に アラブ人居住地の独立支持を約束した。これは、翌年のアラブ地域を分割を決定した サイクス・ピコ協定、翌々年のパレスチナへの ユダヤ人入植を認める バルフォア宣言と矛盾しているように見えたため、一連のイギリスの行動を指して「イギリスの三枚舌外交 」とも言われる。しかし下記の通り、線引きを厳密に適用すればパレスチナはそもそもアラブ人国家のエリア内に含まれないこと、またサイクス・ピコ協定で規定された フランス支配地域も、フランス直接統治領に限っていえば(ダマスカス近辺は被るものの)概ねフサイン=マクマホン協定のエリア内に含まれないことから、それぞれの内容は、実はそれほど矛盾していない。しかし、このイギリスの秘密外交が シオニストらの反発を買い、 パレスチナ問題の要因となったことも否めない。
決定的に重要とされているマクマホンの第二の手紙(1915年10月24日付)は、以下のように述べている。

 

メルスィン地区および アレクサンドレッタ地区 、およびシリアのうち ダマスカスホムスハマーアレッポの各地区より西の部分は純粋にアラブ人の地とはいえない。それゆえ、提案される決定からは除かれなければならない。この修正に従い、また我々と特定のアラブ人首長との間で結ばれた諸条約を侵さないような形で、我々はこの決定を受け入れる。提案の境界線の内側にある地域については、イギリスがその同盟国フランスの権益に損害を与えることなく自由に振舞える地域であり、私は貴殿に対しイギリス政府の名において次の通り誓約を行い、貴殿の書簡に対し次の通り返答する権限を与えられている:上記で述べた修正を条件に、イギリスはメッカの太守が提案した境界線の内側にあるすべての地域におけるアラブ人の独立を承認し支持する用意がある。 ここで語られている線引きには、南のパレスチナ地域は含まれていない。したがって、少なくともこの協定とバルフォア宣言の間には矛盾はない。ただサイクス・ピコ協定との間では、同協定にてフランスの勢力圏下にあるとされたシリアおよび北メソポタミア(Aゾーン)をめぐって矛盾が生じた。フサインが最初に提示したエリアにはパレスチナが含まれていたが、フサインはバルフォア宣言が出されるまで、このパレスチナが含まれない線引きに関して、パレスチナの所属の確認をしていない。また、 レバノンから地続きであり ユダヤ教徒キリスト教徒が一定数は居住しているパレスチナ地域は、イギリス側の提示した「純粋にアラブ人の地とは言えない」という条件に当てはまる。そして1919年の ファイサル (フサインの息子)・ ワイツマン会談では、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。

 

「サイクス・ピコ協定(英国が仏・露に対して結んだ協定)」

 

サイクス・ピコ協定(Sykes-Picot Agreement)は、 第一次世界大戦中の1916年5月16日に イギリスフランスロシアの間で結ばれた オスマン帝国領の分割を約した秘密協定。

 

イギリス中東専門家 マーク・サイクス (Mark Sykes) と フランスの外交官 フランソワ・ジョルジュ=ピコ (Franois Georges-Picot)によって原案が作成され、この名がついた。

 

[概要]

1915年11月頃から 連合国側は大戦後の オスマン帝国における勢力分割について秘密裏に交渉がはじまり、イギリスのマーク・サイクスとフランスのジョルジュ=ピコによって案の作成が進められた。その後、 ロシア帝国外相 サゾノフも加わって ペトログラードで秘密協定が結ばれた。 フサインの蜂起(アラブ反乱)直前の1916年5月16日のことである。

 

内容は以下のとおり。 シリア アナトリア南部、 イラクモスル地区をフランスの勢力範囲とする。 • シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。 • 黒海東南沿岸ボスポラス海峡ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。

 

この協定は、イギリスが中東のアラブ国家独立を約束した フサイン・マクマホン協定やイギリスがパレスチナにおける ユダヤ人居住地を明記した バルフォア宣言 (1917年11月)とイギリスが相矛盾する 三枚舌外交をしたとして批判された。

 

1917年に ロシア革命が起こると、同年11月に革命政府によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が明らかにされ、 アラブの反発を強めることになった。

 

フサインの子 ファイサル率いるアラブ軍は、1918年9月にシリアの ダマスカス入城を果たしたが、この地を自国の勢力範囲と考える フランスの反対を受け、1920年7月にダマスカスから追放された。フサイン・マクマホン書簡でのアラブ人国家の範囲は、 ホムス ハマアレッポ ダマスカスを結ぶ線の東側(内陸側)ということになっていたが、1920年4月に開かれた サン・レモ会議ではこの地域のイギリス・フランスの勢力分割(=新国家の設立に当たってどちらの国が指導的役割を果たすかということ)がほぼ確定していた。

 

1921年8月23日、ファイサルはイギリスから イラク王にすえられた。また、反仏運動の指導者であったファイサルの兄 アブドゥッラー王子(アブドゥッラー・ビン=フサイン)はイギリスから トランスヨルダンの首長にすえられ、これは現在の ヨルダン王国となっている。つまるところ、フランス勢力圏下にあったイラク北部やシリア近辺を除いて、フサイン・マクマホン書簡の約束は概ね守られた。

 

 

サイクス・ピコ協定。

濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、

薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領

 

フサインが打ち立てた ヒジャーズ王国は、その後、フサインが カリフを称したことで、 イスラム教指導者層の反発も招き、ナジュドイブン=サウードによって1925年にヒジャーズ王国は倒された。イブン=サウードは後に サウジアラビアを創始し、初代国王となった。 第一次大戦で敗戦国となったオスマン帝国は解体し、 トルコ革命を経て、現在の トルコ共和国へと再生した。イギリスとフランスの中東分割は、1920年4月の サン・レモ会議でほぼ確定していたが、1923年にトルコ共和国が ローザンヌ条約に調印したことで正式に分割された。

 

サイクス・ピコ協定や以後の分割交渉による線引きは、後のこの地域の国境にも影響している。フランスの勢力範囲となったシリア地方からは後に レバノンシリアが独立し、イギリスの勢力範囲からは後に イラククウェートなどが独立した。地域によっては人工的に引かれた不自然な国境線となっている。しかし、もともと地域主義が強いこの地域において、そもそもアラブ民族諸宗派の総意となる自然な国境線を引けたかどうかのジレンマが残る。この線引は現在でも残っていることから、それなりに有効だったと好意的に考えることもできる。

 

その後、一連の矛盾外交によって生じた パレスチナ問題や、1921年3月21日の カイロ会議では ガートルード・ベルの意見が採用されて現在も不自然な国境で分断されている クルド人問題など多くの問題を生じた。

 

東部から イラク西部にかけて勢力を拡大している過激派組織 ISIL(イスラム国)も、サイクス・ピコ協定に怒りを抱いており、武装闘争を続ける動機の一つとされる。

 

2014年6月、ISILの樹立が宣言された時期に「サイクス・ピコ協定の終焉」というビデオが公開された。サイクス・ピコ協定の国境地帯の警察署を爆破したとする映像など、ISがシリアとイラクの国境をないものとして支配を広げていることを印象づけるものであった。ISはこれまでの国境を無視して、イスラム国家を樹立すると宣言しているなど、サイクス・ピコ協定の『全否定』をよりどころとしている。

 

歴代の アラブ諸国の政権というのは、ずっとサイクス・ピコ協定が悪いと主張してきており、教育でも教えていた。そういう意味ではISILが突然言い出したことでもなく、また現地の各国の人たちも共感はしたりする。イスラム世界が最大の版図を持っていたときの誇りを全部取り戻すというような主張をしているが、実際にISILがやったのは、イラクやシリア、その近代につくられた国境線を壊してみせるということであった。サイクス・ピコ協定を批判するアラブ諸国の政権は、実際にはサイクス・ピコ協定の枠の中で国を与えられて、それを既得権益のようにしてきた。だから実際には自分たちで国境線を引き直そうとしなかったが、それを小規模ではあるがイラクとシリアのところでISILがやってみせた。これは言っていたことが初めて実現したということで衝撃を与えた。 今まで国境に関する矛盾を覆い隠していたのはかつての フセイン政権や今のシリアの アサド政権のような抑圧的な独裁政権だった。それらが アメリカイラク戦争や、『 アラブの春』以後、民衆の反体制運動をきっかけに揺らいだことで、宗教や宗派の問題が今出てきている。

 

[その他]

 

当時フランスの首相兼外相だった アリスティード・ブリアンは、外交官 フランソワ・ジョルジュ=ピコを派遣してサイクス・ピコ協定を締結させたが、1926年にノーベル平和賞を受賞した。

 

• 映画「 アラビアのロレンス」は、 フサイン蜂起の頃を背景にしている。多少の脚色をまじえ イギリスの工作員 ロレンスの活躍を描く。

 

モスル地区(現在はイラク領)はその後の交渉でイギリスの勢力範囲となった。当時、開発が本格化しつつあった油田の存在が交渉に大きな影響を与えた。

 

「バルフォア宣言(英国がユダヤに対して行った宣言)」

バルフォア宣言とは、 第一次世界大戦 中の1917年11月2日に、 イギリス の外務大臣 アーサー・バルフォア が、イギリスのユダヤ系 貴族院 議員である第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド に対して送った書簡で表明された、イギリス政府の シオニズム 支持表明。

 

[概要]

バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナ における ユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束している。
しかし、この方針は、1915年10月に、イギリスの駐エジプト 高等弁務官 ヘンリー・マクマホン
が、 アラブ人 の領袖であるメッカ太守フサイン・イブン・アリー と結んだフサイン=マクマホン協定

(マクマホン宣言)と矛盾しているように見えたことが問題になった。すなわち、この協定でイギリス政府は、オスマン帝国 との戦争( 第一次世界大戦 )に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラブ人の独立を承認すると表明していた。フサインは、このイギリス政府の支援約束を受けて、 ヒジャーズ王国 を建国した。
一方でパレスチナでの国家建設を目指すユダヤ人に支援を約束し、他方でアラブ人にも独立の承認を約束するという、このイギリス政府の二重外交が、現在に至るまでの パレスチナ問題
の遠因になったといわれる。しかし、フサイン・マクマホン協定に規定されたアラブ人国家の範囲にパレスチナは含まれていないため、この二つは矛盾していない。フサイン・イブン・アリーも、 エルサレム市の施政権以外は地中海側のパレスチナへの関心は無かったことが、後の息子 ファイサルハイム・ワイツマン 博士との会談で証明されている。なおバルフォア宣言の原文では「ユダヤ国家」ではなく、あくまで「ユダヤ人居住地」として解釈の余地を残す「national home」(ナショナル・ホーム、民族郷土)と表現されており、パレスチナ先住民における権利を確保することが明記されている。加えて、もし 民族自決の原則が厳格に適用されるならば、大多数がアラビア人である以上は主権がアラビア人のものであることは明示的であり、少なくとも移民(ユダヤ人)のものにならないことは、特に協定の必要なく理解されていた。 さらに、この2つの約束は、1916年5月に イギリスフランスロシアの間で結ばれた秘密協定、 サイクス・ピコ協定 とも矛盾しているように見えたために問題になったが、内容を読めば実際のところは シリアダマスカス付近の線引きが曖昧なこと以外、特に矛盾していないことがわかる。バルフォアは議会の追及に対して、はっきりと内容に矛盾が無いことを説明している。 ・ メソポタミア はイギリスの自由裁量→保護国としてのアラブ人主権国家 イラク誕生 ・ レバノンはフランスの 植民地→レバノンはフサイン・マクマホン書簡で規定されたアラブ人国家の範囲外である(フサイン=マクマホン協定も参照) • シリアはフランスの保護下でアラブ人主権国家となる→これまたフサイン・マクマホン書簡の内容とはそれほど矛盾しない。ただしシリアの首府 ダマスカス 近辺については、フランス統治領なのかアラブ人地域なのか曖昧な部分が残った。 • パレスチナに関しては、上記のとおり「居住地」としての解釈もあり、またフサイン・マクマホン書簡で規定されたアラブ人国家の範囲外である。あくまで居住地である以上、国際管理を規定するサイクス・ピコ協定とは矛盾しない。従って、少なくともバルフォア宣言と他の二つの協定の間には、文面上は何の矛盾もない。

[宣言の内容]

バルフォア宣言を表明した、バルフォア外相からロスチャイルド卿に送られた書簡

 

英文:

Foreign Office, November 2nd, 1917.

 

Dear Lord Rothschild,

 

I have much pleasure in conveying to you, on behalf of His Majesty's Government, the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations which has been submitted to, and approved by, the Cabinet.

 

"His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine, or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country".

 

I should be grateful if you would bring this declaration to the knowledge of the Zionist Federation.

 

Yours sincerely, Arthur James Balfour

 

和訳文:

外務省 1917年11月2日

 

親愛なるロスチャイルド卿

 

私は、英国政府に代わり、以下のユダヤ人のシオニスト運動に共感する宣言が内閣に提案され、そして承認されたことを、喜びをもって貴殿に伝えます。

 

「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の努力を払うものとする。ただし、これは、パレスチナに在住する非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位を、害するものではないことが明白に了解されるものとする。」 貴殿によって、この宣言を シオニスト連盟 にお伝えいただければ、有り難く思います。

 

敬具 アーサー・ジェームズ・バルフォア

 

[中央同盟国陣営の反応]

このような動きに対して 中央同盟国 も対抗し、 オスマン帝国 の大宰相 タラート・パシャ は「パレスチナのユダヤ人の正当な要望に応える」とする声明を発表した。

●バルフォア宣言を表明した書簡を送った相手、「ロスチャイルド」に関しては→ ロスチャイルド家の200年を参照。

 


 

[雑学]

 

「アラビアのロレンス」

 

実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国 からのアラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画である。(デビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演、作品賞ほか各種アカデミー賞受賞) 

 

[トマス・エドワード・ロレンス]

イギリスの軍人、考古学者。 オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。

 

 

トーマス・エドワード・ロレンス

 

1914年7月、第一次世界大戦 が勃発し、イギリスも連合国の一員として参戦することになった。

ロレンスは同年10月に召集を受け、イギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる 。臨時陸軍中尉に任官された後、同年12月には カイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学力を活かし連絡係を務めるようになった。

 

1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇に アラビア半島へ旅行しているが、 これは オスマン帝国 に対するアラブの反乱の指導者を選定する非公式任務であったと言われる。

 

反乱を支援したトーマス・エドワード・ロレンス

 

情報将校としての任務を通じて、ロレンスはハーシム家当主フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フサインと接触する。 ロレンスはファイサル1世(ファイサル・イブン・フサインとその配下のゲリラ部隊に目をつけ、共闘を申し出た。そして、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、 各地でゲリラ戦を行いヒジャーズ鉄道を破壊するという戦略を提案した。

この提案の背景には、ヒジャーズ鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊活動を続ければ、 オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けにされ、結果としてイギリス軍の スエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けることができるという目論見があった。

 

1917年、ロレンスとアラブ人の部隊は 紅海北部の海岸の町 アル・ワジュの攻略に成功した。これによりロレンスの思惑通り、オスマン帝国軍は ヒジャーズ の中心である メッカへの侵攻をあきらめ、 メディナと鉄道沿線の拠点を死守することを選んだ。

続いてロレンスは、戦略的に重要な場所に位置するにもかかわらず防御が十分でなかった アカバを奇襲し、陥落させた。この功により、彼は少佐に昇進している。 1918年、ロレンスは ダマスカス占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進する。

 

 

ヒジャーズ鉄道路線図

(オスマン帝国時代)

 

戦争終結後、ロレンスは ファイサル1世の調査団の一員として パリ講和会議に出席する。1921年1月からは、 植民地省中東局・アラブ問題の顧問として同省大臣のウィンストン・チャーチルの下で働いた。

1921年3月21日、 カイロ会議 1922年8月には「ジョン・ヒューム・ロス」という偽名を用いて空軍に二等兵として入隊するが、すぐに正体が露呈し、1923年1月に除隊させられる。同年2月、今度は「T・E・ショー」の名で陸軍戦車隊に入隊する。しかし、彼はこの隊を好まず、空軍に復帰させてくれるよう何度も申請し、1925年にこれが受理された。その後は1935年の除隊まで イギリス領インド帝国やイギリス国内で勤務した。

 

除隊から二ヶ月後の1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイ[2]を運転中、 自転車に乗っていた二人の少年を避けようとして事故を起こして意識不明の重体になり、6日後の5月19日に死去。 46歳だった。

墓所はドーセット州モートンの教会に現存する。この事故がきっかけとなりオートバイ乗車におけるヘルメットの重要性が認識されるようになった。

 

[アラビアのロレンスの裏話]

その昔 アンマンオスマン・トルコ領であった。しかし、なにせ時代は 帝国主義イギリスはトルコを攻撃して、なんとか自分たちの支配地を拡大しようとしていた。 そこで登場するのが、トーマス・エドワード・ロレンス、いわゆるアラビアのロレンスだ。

アラブ人を支え、対トルコ工作を行い、アラブを独立に導いた英雄である。 (とされているが、アラブ人側からの評価は必ずしも高くはない)。

 

ロレンスはアンマン攻撃に際し、遺跡の破壊を真剣に悩んでいる。 自伝『 知恵の七柱』では、“the puzzle of these ruins added to my care”と「puzzle」という単語を使っており、かなり悩んでいた様子がうかがえるのだ。 実はロレンスはもともと考古学者だったので、遺跡の重要性は心の底から認識していた。 アンマン攻略は自伝のなかではおまけ扱いで、大きく取り上げられているのは、ヨルダン南部の アカバ港攻撃(AD1917年)である。 アカバは 紅海でトルコ側に残された唯一の港で、 スエズ運河にも ヒジャアーズ鉄道にも近接している要衝であった。 アカバ攻略に対し、 フランスのブレモン大佐が共闘を申し出る。

 

以下、自伝よりお互いの本音部分について書かれた部分を引用すると・・・。   《ブレモンは、彼の真意をいわなかった。だが私は知っていた。アカバへ連合軍を上陸させたがっているのは、フランスの アラビア侵入への基礎をきずくと同時に 英仏連合軍を引き入れた 大シェリフにたいする疑惑をアラブ人のあいだに生ぜしめ、彼らの結束の永続を妨げるという目的があるからなのだ。 私のほうでも自分の本心を云いはしなかったが、ブレモンのほうで、ちゃんと知っていたはずだ。 私が彼の計画を粉砕して、アラブ軍を(トルコ領の) ダマスクスまで押し進める決心でいることを。 私はふと、子供じみた競争意識がかかる大問題をおたがいにこじらせていることに思いおよんで、心中苦笑を禁じえなかった》(『砂漠の反乱』中公文庫)  

 

さて、 イギリスの工作は現在の イラク側でも行われた。その代表が南部の要衝 バスラ港の攻略だ。1914年、 第一次世界大戦が始まってすぐのことである。 イギリスはあっという間にバスラを手中に収め、 ペルシャ湾の出口を押さえることに成功した。 こうしたさまざまな策略の末、イギリスはイラクと ヨルダン委任統治領にすることに成功したのである。  

 

イギリスは ハーシム家太守 フサインの次男 アブドラにヨルダンを、三男 ファイサルイラクを統治させる。 ファイサルは、ロレンスが「アラブの反乱に栄光をもたらす完全な指導者」と絶賛した人物であった。

 

ロレンスはその後、植民地省のアラブ問題顧問になるが、政府の帝国主義政策に疑問を感じ、辞任する。 本人は、たしかにアラブの真の独立を夢見ていたのかも知れない。しかし、結局のところ、ロレンスは政府に利用され、帝国主義の推進に一役買っただけであった。

 


 

第一次世界大戦後の大シリア

 

第一次世界大戦は、 連合国側の勝利で終結した。 敗北した オスマン帝国は解体され、 共和制トルコが誕生し、同時に スルタン制も廃止された。

 

終戦後、の1920年、 イタリアサンレモで開かれた 連合国会議では、オスマン帝国領を分割することとなり、 シリアレバノンフランスの 委任統治領パレスチナイギリスの委任統治領とした。 そしてフランスは、王位についていた ファイサル1世をシリアから追放したのであった。

 

こうしてアラブの独立王国樹立は阻まれることとなったのである。 しかし、その後 アラブ民族主義は新たな局面を迎えることになる。

 

1921年3月、 ハーシム家フセインの息子 アブッドゥッラーは、現在の ヨルダンの首都である アンマンに進撃する。 その後、イギリスは、パレスチナの地をふたつに分け、 ヨルダン川東岸地域をアブッドゥッラーの領土とすることを決めた。 そして、イギリスの援助で「 トランス・ヨルダン首長国」が成立したのである。彼はその首長となり、依然として 大シリア主義を唱えつづけたのであった。 また、北部のフランス領では、1926年に「国民憲章」という形で国家統一を果たしたレバノンと、 ダマスカスアレッポを中心とするシリアとで、別々の歩みが始まった。 両国とも反仏運動を繰り返した末、1936年にシリアとレバノンはふたつの共和国として自治を認められたが、完全に独立するのは、 第2次世界大戦後の1946年になってからのことである。

 

一方、イギリスの委任統治下にあったヨルダン川西岸のパレスチナでは、 ユダヤ人国家が着実に建設されつつあった。 これを巡る対立と抗争は、後述のヨルダンの歴史で述べる。

 

[3国の独立と現在までの歴史]

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◆ヨルダン・ハシミテ王国

 

1921年、 トランス・ヨルダンが建てられた後、 アブッドゥッラーは、1925年にはそれまで ヒジャーズ王国の領土だった南部の マアーンアカバ地方を併合した。 これが現在の ヨルダンの基礎となったのである。  第2次世界大戦後の1946年3月、 イギリス委任統治権を放棄した。 イギリスの 駐留権を認めさせる代わりに、軍事上、財政上の援助をすることを約束したのであった。  この結果、同年5月25日、正式にイギリスからの独立を宣言し、トランス・ヨルダン王国が誕生した。 ところが、1948年になると 第1次中東戦争が起こる。 これは先に述べた、 第1次世界大戦中にイギリスがとった「二枚舌外交」に端を発するものだったのである。

 

ユダヤ人は、 パルフォア宣言に基づき、 パレスチナへの移住をはじめたのであった。 しかし、第2次世界大戦後の1947年に、 国連はパレスチナの地を アラブユダヤ両独立国に分割し、聖地 エルサレムを国連管理下に置くことを決定した。 1948年、ユダヤ人は イスラエル共和国の独立を宣言。

 

しかしアラブ人は、この決定をユダヤ人を優遇する不公平なものとして受けとり、イスラエルの独立に反発する。 1945年にアラブ連盟を結成していた エジプトシリアレバノン、ヨルダン、 イラクサウジアラビアイエメンの7カ国は、ただちにイスラエルを攻撃したのだった。 これがパレスチナ戦争であり、中東戦争の始まりとなったのだ。 この戦争は、1949年イスラエル優勢のうちに一時収まったのだが、その後もイスラエルとアラブ諸国間の紛争は3回にわたって続いた。

 

さて、ヨルダンでは、この戦争の結果約35万人の パレスチナ人を抱え込むなど多くの難問を抱えることになった。

 

トランス・ヨルダンは、1949年6月に国名を「ヨルダン・ハシミテ王国」と改称し、1950年4月には東エルサレムを含む ヨルダン川西岸地域を統合した〔西エルサレムはイスラエルが制圧〕。 これにより、新たに50万人のパレスチナ人がヨルダン国民となったのである。

 

しかし、1951年、 アブッドゥッラー国王はエルサレムで暗殺されてしまう。その後、息子タラールが国王に即位したが、病身のために退位し、1952年には、タラールの息子 フセインが即位。 1964年になると、アラブ首脳会議に参加し、フセイン国王は意欲的に外交活動を展開した。  ところが、1967年の起こった 第3次中東戦争(6日間戦争)で大きな損害をこうむってしまったのだ。 この戦いの原因は、エジプトがアカバ湾の出口の チラン海峡を閉鎖したことに始まる。 イスラエルは奇襲攻撃を展開した。 その結果、ヨルダンは、ヨルダン川西岸と聖都エルサレムをイスラエルに占領され、さらに約15万人の難民を抱え込んでしまうことになった。

 

その後、パレスチナ人の ゲリラ活動が盛んになり、イスラエルとの闘争が激化し、ヨルダンもその戦火に巻き込まれてしまったのである。

 

第3次中東戦争でアラブ諸国が大敗すると、パレスチナ人の間では、アラブ諸国に頼るのではなく、自らの力でパレスチナの地を開放しようという動きが始まった。 これにより パレスチナ解放機構 (PLO)が結成され、1969年に アラファトが議長に就任した。 PLOは、最初ヨルダンに拠点を置いた。 そして、ヨルダン国内のもうひとつの国家として地位を占めるようになったのである。 このためヨルダン政府は、1970年、PLOに対して正規軍による攻撃を行いゲリラ組織を国内から追放してしまった(黒い9月事件)。 しかし、ヨルダンはアラブ諸国の激しい反発を招いて孤立してしまう。 フセイン国王は、1973年、パレスチナ自治国をつくってヨルダンと連合させる「アラブ連合王国」の構想を打ち出したが、さらにアラブ諸国の反発を買ってしまったのだ。  しかし、同年10月の 第4次中東戦争を機に、ほかのアラブ各国と国交を回復し、PLOを正式に承認。そして、 中東和平に積極的に歩み出したのであった。

 

1980年に、 イラン・イラク戦争が始まると、いち早くイラクを支持した。 しかし、 イラン側についたシリアとの関係が悪化。 また、ヨルダン側西岸では イスラエル人の入植政策が進み、イスラエル人との衝突も起こっていた。 さらに、1982年の イスラエルレバノン侵攻にともなうパレスチナ難民虐殺問題など、ヨルダンはその後もパレスチナ問題とは複雑にかかわっていくことになる。

 

湾岸危機ではイラク寄りの立場をとったが、 湾岸戦争後はイスラエルと 和平条約を結ぶなど、 中東和平プロセスに向けて前向きな姿勢をとっている。1994年10月にはイスラエル・ヨルダン平和条約が結ばれた。

 

1999年2月、激動の中東を長年生きてきたフセイン国王が死去し、6月にはその息子 アブッドゥッラーが新国王に即位した。人口の役7割を占めるパレスチナ人をいかに体制内にとりこんで、不安定な要因をなくすか、これが目下の内政の目標といえるだろう。

 


 

[解説]

 

「パレスチナ」

 

古称は「フル」、「カナン」という。 パレスチナの語源は ペリシテ人の土地という意味で、紀元前13世紀頃にペリシテ人が住みついたことに由来する。 紀元前10世紀に イスラエル王国が建設され、中心都市として エルサレムが建設された。

 

イスラエル王国の人々が育んだ民族宗教 ユダヤ教の聖典 旧約聖書では パレスチナの地は神が イスラエルの民に与えた約束の地であると説かれ、このため ヘブライ語では「イスラエルの地 ((Eretz Israel)」とも呼ばれるようになる。 既に述べたように、イスラエル王国崩壊後には周辺諸国の支配を受け、のちにユダヤ教の中から キリスト教が興ると、その聖地と定められた。 さらに、ユダヤ教・キリスト教の影響を受けて アラビア半島に興った イスラム教もエルサレムを聖地としたため、諸宗教の聖地としてエルサレムを擁するパレスチナは宗教的に特別な争奪の場となったのである。

 

7世紀には イスラム帝国の支配下に入り、 シリアを支配する勢力と エジプトを支配する勢力の間で帰属がしばしば変わった。 11世紀には ヨーロッパから 十字軍が到来し、 エルサレム王国が建国されたが、12世紀末には アイユーブ朝サラーフッディーンに奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝の支配下に入ったのであった。 16世紀になると、エジプトの マムルーク朝を滅ぼした オスマン帝国がパレスチナの新しい支配者となる。

 

19世紀以降、ヨーロッパで次々に国民国家が成立し、各地で民族の自己認識が促されると、ヨーロッパにおいて マイノリティーとして排除されてきた ユダヤ人が新天地を求めてオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。
彼ら入植ユダヤ人は1948年にイスラエルの建国を勝ち取るが、このために多くのパレスチナ人が難民化して パレスチナ問題が発生。中東の火薬庫となるのである。

 

イスラエル政府とパレスチナ勢力の パレスチナ解放機構は長い闘争の末、1993年になって オスロ合意を結び、1994年からパレスチナの一部でパレスチナ解放機構が主導する暫定自治が開始された。 しかし、オスロ合意で定められたパレスチナ問題の包括的解決に向けた話し合いは頓挫し、さらにイスラエルとの和平に合意しない非パレスチナ解放機構系の組織による テロや軍事行動が続いた。 2000年以降、再びイスラエルとパレスチナの闘争が再燃し、和平交渉が事実上の停止状態にある。

 

一方、パレスチナ側は、停戦に応じても、イスラエルが一方的に攻撃を続けていると指摘。 実情は、「停戦とはパレスチナ側だけに課せられたもの」となっていると主張している(「停戦」中のはずのパレスチナの一週間)。 たとえば、2001年、イスラエルの シャロン首相はパレスチナとの交渉停止を通告し、 アラファートPLO議長を軟禁してしまう。 再開に「7日間の平穏」とさらに「6週間の冷却期間」を要求した。 しかし、平穏が達成されたかどうかは、イスラエル側が判断するとしたのである。 パレスチナ側の停戦は37日間続いたが、シャロン首相は「始まってもいない」として、この間一方的にパレスチナへの攻撃を続けた。  ハマースが反撃したため、なし崩し的に停戦は消えてしまったのであった。

 

アラファトの死後、 アッバースが後継者となった。
2005年2月8日、2000年10月以来4年4ヶ月ぶりにシャロン首相は首脳会談に応じた。両者の暴力停止(停戦)が合意されたが、交渉再開は停戦継続を条件としており、現在でも双方の攻撃が完全に収まったわけではなく、困難が予想されている。

 

「黒い九月事件」

 

“黒い九月“は、数々のテロ事件を引き起こしたパレスチナの過激派組織で、“ブラックセプテンバー”といわれている。  1960年代後半、 ヨルダンに拠点を置いていた パレスチナ解放機構(PLO)の過激な行動に手を焼いた同国の フセイン国王は、1970年9月にPLOの武力追放を決定した。 すると、ヨルダン内戦が勃発する。

 

黒い九月事件とも呼ばれるこの内戦で、PLOは多くのメンバーを殺され、追われる形で レバノンベイルートに拠点を移すことになったのである。PLOの衝撃は大きく、フセイン国王の行為を裏切りとして強く反発した。

 

その後、レバノンで活動を始めたPLOの最大派閥 ファタハは、対 イスラエル闘争の行き詰まりから、過激な活動を行うための秘密テロ組織を結成したのであった。 これが黒い九月“ブラックセプテンバー“といわれるものである。
黒い九月の存在は、ミュンヘンオリンピック事件で一気に知れ渡った。
選手村に潜入したテロ集団によってイスラエル選手とコーチ11名が殺害され、イスラエルに大きな衝撃を与えたこの事件は、われわれの記憶にも新しいところだ。イスラエルの情報機関、 モサドはこの報復として黒い九月関係者の多くを暗殺している。 

 

組織自体はファタハとの関係が明るみに出るや否や解散した。この事件を受けてドイツ連邦国境警備隊 第9対テロ部隊(GSG-9)が設立された。
*関連する映画:●映画《テロリスト・黒い九月》1986年公開         ●映画《ミュンヘン》2005年公開

 


 

◆シリア・アラブ共和国

 

ヨルダンイギリス統治下にあったのと同じく、 第1次世界大戦フランスの委任統治下にあったシリアでは、 フランスに対しての 民族主義運動が展開された。1925年の ドルーズ派の反乱を機に、フランスから名目上の独立を獲得したのである。 

 

1930年~40年の間には、知識人や学生を中心とする民族主義者の運動がさらに活発化し、新しい政党がいくつか生まれた。 代表的なものを挙げると、宗教と国家を分離させる シリア主義を唱え ファシズムに影響を受けた「 シリア民族主義党」、アラブの統一を目指した「 バース党」、「共産党」、イスラム教徒の「 ムスリム同胞団」などだ。  第2次世界大戦後の1946年4月、フランスから正式に独立した。 1948年には ヨルダンと同様、 第1次中東戦争イスラエルに敗れ、その後1949年~54年まで軍事政権が起こったが政情は不安定となった。 1958年、バース党は諸政党や軍部と協力して エジプトナセル政権と合併した「 アラブ連合共和国」を結成する。 ところが、エジプトが主導権を握ったため、1961年には崩壊した。

 

シリアは、1967年の 第3次中東戦争でイスラエルに敗北し、古来から肥沃な土地であり、戦略上の要所であった ゴラン高原を失ってしまう。 その後、戦後の方針を巡って急進派と アサドらの穏健派が対立する。1970年にアサド国防相が首相に就任してアサド体制が出来あがった。

 

1973年10月には、 第4次中東戦争に参戦する。1977年11月の サダト・エジプト大統領の イスラエル訪問をきっかけに、 リビアアルジェリアPLO などアラブ強硬派の結束を固めて、エジプトとの断交を決定した。

 

1978年から1982年にかけて、アサドが治安・情報機関の出身母体である アラウィー派を多く登用したことから、多数派であった スンニー派が反発し、 イスラム原理主義のムスリム同胞団が反政府活動を行ったのであった。 1982年の中部 ハマーで起きた大規模な暴動を弾圧し、数万人という犠牲者が出て、同胞団の活動は衰退していった。

 

ここで、対 レバノン情勢について触れておく。
これまでの歴史的な関係上、シリアはレバノンをシリア領土の一部とみなしている。 1976年にはレバノン内戦に介入し、同10月のアラブ首脳会議でレバノンにおけるシリア軍の駐留が認められた。 しかし、2005年2月、レバノンの ハリリ元首相暗殺事件を機にシリア軍の完全撤退を求める国際圧力が強まり、シリアは同4月下旬、撤退を完了させた。 その後も、レバノン国内では反シリア派政治家らの暗殺が相次いでおり、シリアはレバノンへの一定の影響力を依然保持しているとの指摘もある。 1982年のイスラエル軍レバノン侵攻では、イスラエルと対戦して大損害をこうむったが、1990年に起きた 湾岸危機では約2万人の地上部隊を サウジアラビアに送り、 多国籍軍に参加して反 イラク陣営の要となった。 しかし、 アメリカヨーロッパとは距離をおいて、 湾岸戦争では直接イラク領内の戦いには参加しない立場を守ったのであった。

 

1994年1月に、アサド大統領は ジュネーブクリントン米大統領と会談し、和平実現を望む姿勢をはじめて示した。
1999年3月、アサド大統領が圧倒的多数で再任された。内政では、経済政策として民間活力の導入や外資の誘致などが進められている。 また、外交では、 中東和平プロセスは支持しているが、「平和と領土の交換」を原則にした和平の達成が必要という立場をとっている。 これは、1967年の第3次中東戦争で奪われたゴラン高原の全面返還を求めての声明といえる。

 

◆レバノン共和国

 

レバノンは、 大シリアの中でも 自治権を与えられたのが一番早かったので オスマン帝国の支配下、1860年にレバノンでは キリスト教徒イスラム教徒が対立して反乱が起こった。 フランスは軍隊を派遣し、オスマン帝国にレバノンの自治を認めさせた。

 

第1次世界大戦後は、シリアの一部としてフランスの 委任統治下にはいるが、1943年に独立を宣言し、1948年には パレスチナ戦争に参戦したのであった。 独立以来、この国は繁栄を続けてきた。 首都 ベイルートは急速に発展し、中継貿易の基地として栄え自由金融市場となったのである。  トリポリサイダの町は、 イラクサウジアラビアからの送油管の終点となっていた。

 

ところが、1975年、繁栄を続けるレバノンを不幸にする大事件が起こる。 1970年、 ヨルダン政府が PLOゲリラ組織を国外へ追放した事件( 黒い9月事件)で、レバノンになだれ込んだ パレスチナ人はベイルートやレバノン南部に難民キャンプを設けたのだ。 そして、1975年4月、ベイルート郊外でパレスチナ ゲリラのバスが、レバノンのキリスト教徒の最有力政党である ファランヘ党グループによって襲撃され、27名が死亡した。 これを機に、イスラム教対キリスト教の15年にわたる内戦が始まったのである。 これにより、ベイルートは東西に分断されてしまった。さらに、追い打ちをかけるように、 レバノン内戦が起こったのである。 1982年6月、PLOを一掃するという目的で、 イスラエルは西ベイルートを包囲した。 これは「ベイルート侵攻」と呼ばれている。

 

イスラエル軍は約2週間にわたってベイルートとレバノン南部のパレスチナゲリラ基地を爆撃し、民間人に500人の犠牲者を出した。 PLOのゲリラ約1万人は、同年8月 チュニジアなどのアラブ8ヶ国に分散したのであった。 しかし、同年10月には、また 米海兵隊司令部爆破事件が起こり、イスラエル軍は1985年6月にベイルートから完全に撤退した。

 

内戦収拾のための国会議員協議会がサウジアラビアの タイーフで開かれるなど、和解が進むなか、1989年レバノンの エリアス・フラウィ大統領は、軍人内閣を率いていたキリスト教 マロン派ミシェル・アウン将軍を軍司令官から解任し、全民兵組織にベイルートからの退却を命じて、内戦は終結したのであった。
しかし、 シリア軍が内戦に乗じて侵攻、駐留し、レバノンはシリアの実質的支配下にあった。

 

2005年2月14日にレバノン経済を立て直した ラフィーク・ハリーリー前首相が爆弾 テロにより暗殺されるなど、政情は悪化し、政府と国民との軋轢も拡大している。 その要因となったシリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は2005年4月に完全撤退した。 しかし、現在も政府高官を含めシリアの影響は強いといわれている。

 


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