【 マケラスの砦兼宮殿 】

 

 マケラスの砦1s

マケラスの砦兼宮殿

 マケラスの砦2s

マケラスの砦兼宮殿跡

 

マケラスは、死海の東側、ヨルダン川の河口の南東約25kmの丘の上に建てられた砦兼宮殿である。 フラウィウス・ヨセフスによれば、そこは洗礼者ヨハネが投獄され、処刑された場所であった。

 

聖書マルコ6:24;マタイ14:8)によると、この悪名高い死刑執行は、過越の祭りの直前の西暦32年頃に行われたと記されている。

 

マケラス要塞は、もともとハスモン朝の王アレクサンダーヤンネウス(紀元前104年から紀元前78年)によって紀元前90年頃に建てられ、重要な戦略的地位を占めていた。

 

紀元前57年にローマの将軍ガビニウスによって破壊されたが、後にヘロデ大王によって紀元前30年に再建され、ヨルダン東部の領土を守るための軍事基地として使用された。

 

ヘロデ大王の死後、要塞は紀元前4年から西暦39年まで統治していた息子のヘロデ・アンティパスに引き継がれた。

 

ヘロデ・アグリッパ一世に受け継がれ、彼の死後、ローマの支配に入る。しかし、66年ローマ帝国に対してユダヤ人が決起した“ユダヤ戦争”によって、死海西側のマサダと同じように、決起したユダヤ人たちはマケラスに篭城する。ローマ軍は包囲し、傾斜路を作って入り込み、要塞を破壊し、基盤だけを残したと伝えられている。

 

マケラス砦兼宮殿の全容について、 フラウィウス・ヨセフスユダヤ戦記で、次のように述べている。

 

・・・実際、その要塞の地形はそこを守る者には身の安全を確信させたし、攻撃する者には逡巡と不安を覚えさせるものだった。
防壁をめぐらされた所は岩山で非常に高く、それだけでも攻略を困難にしていた。

そのゆえ、その場所の地形が要塞への接近を難しくしていた。目の眩むような深い渓谷の至る所に壕が掘られ、その横断は容易ではなく、まして埋め立てなどは不可能だった。
西側から要塞を囲む渓谷は約11,000メートル伸びて、アスファルティティス湖(死海)に達している。この方面のあらゆる地点で、マケロスの屹立した頂がもっともと高くなっている。

北側と南側の渓谷は、規模の点では前述の渓谷に及ばなかったが、攻撃を同じく困難にしていた。東側の渓谷は深さ約45メートルにも達し、マケロスと向き合う山まで伸びていた。

 

ヘロデは、王になると、そこが何よりアラビア人の土地と近接しているために、最高の警戒を要し強固な防備施設をつくるに値すると考えた。実際そこはアラビア人の土地を望み得る便利な所にあった。
そこで彼はその広大な場所を防壁と何基もの塔で囲み、その中に町をつくり、そこから尾根自体に通じる上りの道をつけた。ヘロデがしたのはこれだけでなく、頂きの周囲に防壁をめぐらし、その隅にそれぞれ高さ約25メートルの塔を建て、囲みの中央には大きな美しい部屋がいくつもある豪壮な宮殿をつくった。
彼はまた雨水を受け、潤沢に供給するために適切な場所にそれを受ける施設を沢山つくった。
あたかも彼は、自然と張り合い、これらの造営物で自然が授けてくれた難攻不落の土地を征服しようとしているかのようだった。・・・

 

マケルスの砦の発掘調査は、1978-1981年にフランシスコ会聖書研究所のコルボ神父(V.Corbo)によって行われた。
その結果、前2世紀のハスモン朝時代から西暦1世紀にかけて宮殿があったこと、および、その建造物の基礎が明るみになった。さらに、西暦1世紀前半のヘロデ・アンティパスの時代に、そこにはtriclinium(宴会場)があったことも確認された。
その後も同研究所の協力で、研究と復元の作業が続けられている。

 

 マケラスの砦兼宮殿復元図1s

マケラスの砦兼宮殿復元図1

 マケラスの砦兼宮殿復元図2s

マケラスの砦兼宮殿復元図2

 


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